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「大人が出てこない」とき、出てこないのは大人だけか

 千年先だって愛してる——。瀬戸内寂聴さんがペンネーム「ぱーぷる」で書いたケータイ小説「あしたの虹」。両親の離婚に心を痛める女子高生ユーリが出合った運命の恋をみずみずしく描く。毎日新聞社から単行本として刊行されたのを記念して、ケータイ小説に詳しい写真家の藤原新也さんを迎え、なぜ「あしたの虹」を書いたのかを明かし、ケータイ小説に寄せる思いなどを語り合った。

として、毎日新聞のサイトに対談が掲載されている。読んでない本については、できれば内容に言及したくないんだけど。下の「大人が出てこない」という話は、おれが80年代の小説に感じ、その後にのめり込んだ原因にもなった印象と同じで、気になった。

 瀬戸内 初めは面白くてワクワクして書いていましたが、真ん中あたりがつらかった。これでいいのかという気持ちと、もっと他の小説を書いた方がましじゃないかなどと考えて。終わりの方はさっとできた。藤原さんが、ケータイ小説には大人が出てこないと言われていた。家族が登場しても、何があっても知らん顔。娘がレイプされても親は知らない。そんなことはありえないでしょう。それが若い子たちの世界なんですよ。私はどうしても親が出てくる。おばあちゃんまで出てくる。


 藤原 普通のケータイ小説は世代間の交流はないのが特徴。ある意味、不健康。瀬戸内さんの作品は健康で、いろんな棚の人が登場してかかわる。それが今の人の風景になじむのかなというのはあった。

おそらく、現実に「大人」に頼れないという自意識過剰をかかえた悩み方をしている人間にとって、なんのテクニックも無く「大人が出て」くる物語は救いになりにくいのだと思う。まず入れないんじゃないか。おれは小学校を出たころから、高校の半ばまでそうだった。スリリングでも説教臭いと感じたり、単に退屈だと感じたり。


そういう意味ではたしかに「この20年で棚ができた。世代の違いがあってお互い交わらなくなった。特に10代、20代は違いますね」というのはわかる。


ただ、ここでは「ケータイ小説」の特徴のように書かれているけれど、村上春樹の世界だって「大人」的なものは出て来ない。だから、実際にはもう少し前、60年代、70年代ぐらいから世代間の価値観のギャップがそれ以前より激しくなったのかも、と感じる。


「この20年」でくくるなら、さらにその結果として、そもそも「大人」的な在り方が崩壊しつつある(例えば「友達みたいな親子」という語義矛盾した表現ある)のではないか。オリジナルなディスコミニュケーションが親と祖父母の世代にあり、今あるのはそこからさらに再生産されたものだ。


この対談では世代のギャップも「人間の目ってわずかな違いで風景が違う。地面に座って街行く人をながめると棚が違う」(藤原)と、基本的に視線の位置の差で説明しているが…。


世代間のギャップ。それだけならここまで苦労しない。本当にそれだけだとは思えないんだよ。


断絶があるというより、言葉がない。現実に言葉が追いついてないのかもしれない。名前がまだ無い。あったとしても全員には通じない。
ただ「こう思う」という言葉は昔からある。だから「風景描写もなければ心理描写もない。こう思うというだけ」になるんじゃないか。

 藤原 文章を書くというのは描写力とか文体とかボキャブラリーとか修飾語だとか、いろいろ繊細な要素がある。ケータイ小説にはそれが一切ない。下手したら300くらいの言葉で書けるくらいシンプル。だけどそれで子どもたちの微妙な心理の葛藤(かっとう)がちゃんと書けている。

 瀬戸内 それが不思議だった。風景描写もなければ心理描写もない。こう思うというだけ。


60、70、80、90とそれぞれの年代が、反抗して挫折して無視して混乱して。その間にも、子供が生まれ、その孫も生まれている。おれは、もう大きいものは残ってないのかもという気分。その下になると、どうも最初から「ない」みたいだ。物事は変動しない。基本、低め安定。そういうのって、「ない」から何も屈託がないわけじゃない。むしろ引き受けざるを得ないもの、どうしようもないことが非常に多いということだ。


だから細部の差が顕在化して、現象は細分化して、発散した。そうしたら、もう他人と共通しうる部分は「心理」しかないということなんじゃないか。


それにしても、視線の高さで説明するなら、せめて2人で「渋谷の地面」に座って言ってくれればもう少し説得力があったのに。座ってるもの同士でもつながれないときのが多い。

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