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現代の日本人にあった、安全でわかりやすい…

「上祐」って名前は、ニュースを見る気がなかったおれでも聞き覚えがあるぐらいだから、まあわかると思いますが、ああの、元「オウム」幹部の上祐氏のこと。さいきんmixiに出て来たとWikipediaにリンクされてたので見ました。で、こういうものは、とりあえずきっちり全文読むべきだろうと思うので、最後まで読みました。
それで、一番気に入ったのは

現代の日本人にあった、安全でわかりやすい

ってとこでした。失礼なのはわかるけど、傑作である。

「食の安全が…」などとよく聞くこのご時世ですので、こんなこと読んだらつい「それ、食えるの?」的なことを思っちゃいそうだ。個人的には、健康食品の宣伝文句を連想してしまったのですが。
正しくは「教え、身体行法、瞑想法、その他特殊な修行法の指導」と続く文章の一部。
でも、食べ過ぎても害のまったくない食べ物がないように、いきすぎても害のまったくない宗教なんてないだろうと思う。
それにしても、昨今の「安全」志向は、本当にすごいものがある。こんなところに「安全でわかりやすい」などと出てくるようでは、どう考えても社会の方が行き過ぎてるってことだと思う。
日記はおそらくコメント管理の問題から、さすがに全公開にはなってなかったけど。プロフはふつう(?)に見れました。


個人的には、彼も含めて「オウム」や「アーレフ」は正直、下世話な興味の対象で、しかももともとゴシップとかにはエネルギーをあまり注げない体質である。だから「オウム」や「アーレフ」というキーワードを完璧に無視できるし、彼のプロフィールとメッセージにも実際さほど強い興味が持てない。


これ、ほめるつもりはないけど、けなすつもりもないのですが。
いま、どのような覚悟で、宗教的リーダーをやっているのかは、想像できない。が、しかし、あれだけ揉まれて、なお、意思を持ち続けていることはすごい。ある面、彼は彼の信仰心の犠牲になって、散々いじめられたのだから。それでもなお、殉教者の立場ではなく、「非代表」(非・麻原)の立場で、わざわざ新しく宗教的な集団をつくったらしいという点で。
それに、彼だって、ああみえて、ふつうに歳を取る人間なのだ。
そのことにただ、すーっと感心した。
いままで「オウム真理教」を中心とした、どたばた的コンテンツ(娯楽)のキーパーソンとしてテレビでもてはやされ、まるでアニメキャラかのように感じていたけれど。mixiのプロフを見れば、「年齢 45」なのだ。まあ、あって当然なのだけど「年齢」という属性があったことが、なぜかすごいと感じる。
こちらの時間軸とあちらの時間軸が、果たして感覚的に一致するのかどうかは誰にも分からないことだが。
mixiを見たことで、おれにとっては、彼は「同時代に生きている」と認識する対象になった。そうなれば当然、「彼も彼の日常を生きている人」だと感じられる。
そうして見ると、なかなか行動的で、ある意味ではとても俗なひとりの人だ。日本社会には、いまいちピントの合わせられない感じはするけど。そうしてみると、むしろ「カリスマ性」とかから遠そうな顔写真が、ただの「若い感じのおじさん」にみえる。ちょっと変わった名字のおじさん。


と、ここまで書いてて思ったのだけど。もしかして彼のそういう種類のモチベーションの源は、
「あれだけいろいろやったのに、まだ自分は聖なるものだという自覚を持てない!」
みたいな点にあるのかもしれない。じぶんの「俗」性の自覚と、「神」の存在の実感したいという欲求の矛盾。「神性コンプレックス」とでも。そのわりに、妙に詳しくなってしまっているし。
しかしまあ、一般的に、だいたい誰にでもそういう感覚が多少はありそうですが。
ただ、なんだかそれが自己目的化しちゃって、ライフワークになっちゃうと、こうなるのかも、と思ったのです。おれにも、うちの親父が、わかりやすくその気があるので、これはかなりお手軽な妄想なのですが。


「聖」なるものへの欲求だけが衰えず、だから「聖」を諦められず、にもかかわらず「聖」性を自覚(あるいは「聖なるもの」の存在を実感)できないまま死に臨む。そして、そのこと自体よりも、その予感が、不安や恐怖を生む。
その「予感」は、信仰に殉じることよりもある意味で残忍だ。だからこそ、その「予感」から逃れたくて、さらに狂信的になる、というスパイラルにはまる人々もいるのだろう。これはオウムの関連の団体というよりも、現在のアメリカを思い浮かべていっているのですが。宗教的な危険性の話だけいえば、オウムよりアメリカ方面のがやばいから。


しかし、よく考えるとこのレベルでは、あくまでも「死」そのものではなく、「予感」から逃れているだけなので、完璧に現世利益のレベルの悩みだ。
で、仮に「現世利益」だけを考えるとする。そうすると、少なくともいまの日本では、「神」を信じるぐらいだったら、素直に、自分の存在、自分が今ある状態だけが真実だと信じる方がリーズナブルだと感じる。
しかも、幸い、というか、おれにとっては自分が存在することには疑問の余地がないし。また、「死ぬ瞬間」や、「死後の他人」(つまり「霊」とか)ならともかく「死後の自分」の存在するかもという考えにはまったく実感が湧かない(ので不安がない)し。ありがたいことである。


また、他方では「リーズナブル」ではないからこそ、理不尽な扱いを受けるからこそ、そこに関わる人々はああやって燃えるのかもしれないな、とも思った。

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