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「愛国心」という言葉の息苦しさ

さいきん、ナショナリズムとか右翼とか、毛嫌いして来たものが、じつは食わず嫌いというか、嫌悪感そのものが単なる勘違いによるものかもしれないかもしれないと思えて来た。だし味、醤油味の料理に舌鼓を打ち「あー日本人に生まれてよかった」というのはナショナリズムかもしれない。愛国心かもしれない。天皇制、皇室制度には、ある種のロマンティシズムを感じ、雅で美しいと思う。


ただ、問題は「愛国心」だ。どうもこの言葉だけは、好きになれない。
というか、愛国心そのものの問題ではなく、その対象となる「国」のイメージの問題なのかもしれない。「国を愛する」というときの「国」がどういうものかだ。個人的には、現在の体制にさほど不満はないのだが…。
しかし、どうも愛国心ということばをつかう人々のイメージする「国」は、ほんとうに現状の日本だろうか。なぜか「愛国心」といわれると「改憲」がセットになってそうな気がするのだ。それも軍備を目指す方向の、改憲。これらからは戦前・戦中の全体主義の匂いがする。これは深読みだろうか。
つまり、わたしは愛国心があると思っているが、ある種の人々から、それを「亡国」などと言われかねないと思うと素直に口にする気になれない。それが、おそらく息苦しさにつながっているのだろう。そういう、微妙な差異を無視される予感がして、息苦しい。

おれはいわゆる9条や、天皇制にも消極的に賛成で、これらを含む現行の憲法に、一定の愛着を持っている。また突出した存在があってもいいと思う。で、これは、個人的には穏健な保守主義だと思う、そう思いたい。ところが、この立場、野中広務はともかく、どうも顔が好きでない亀井静香とかがとる反・新保守主義に、ある面では一番近いのかもしれないらしいのは、ショックなのですねー。
まあ、おれも相当、俗っぽいってことだな。

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