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根なしの大木

「宗教と科学」というようなことが頭についている。Twitterのログにちらっと書いてあるけど、インマヌエルで会った、ダーウィンの進化論を否定する友だちとの、会話のせいだ。もっとも、わざわざ、このようなデリケートなテーマをふって、聞き出したのは僕の方なのですが…。
たとえば、以前、たしかアメリカのサイエンスの教科書を読んだときに目にした「サイエンスが問うのは『どうなっているか』で、宗教が問うのは『なぜ』」というような考えもあるが、やはりどこかで重複し、場合によっては衝突もする。


しかし結局のところ、「実際には一瞬前に全世界がこのように作られたのだけど、ずっと昔からあるように記憶が作られているとしたら、だれもそれに気づけない」というのと同様の意味では、どちらの大木も、たしかに絶対的な根拠はない。


ただ、だからこそ、どのについても大木に根っこがあるかなんて証明できないことについては認めて、あきらめるべきだと思う。そこについては、宗教的世界観も、科学的世界観もいずれにせよ根っこについては「あるはず」と信じるしかないというか、「そうっぽい」としかいえない。
もちろん現実的に言えば、その枝先が観察できる現実により一致するかどうかは、たしかに判断材料として有効であるけど。しかし一致するからといって「根っこまで絶対正しい」とは言い切れない。とくに、枝先の正しさが根っこの「正しさ」の証明には絶対ならない。その辺が、どうも混同されがちなのが、科学にしても、宗教にしても気になるのである。

クラウス (略)解釈の本質について同様の考え違いをしていて,「すべてを知っているのでなければ何も理解していないと同じだ」と思っているのですね。
(略)
そこで私は,この論法について考えてもらうために,彼ら自身を利用する手を思いつきました。つまり創造主義者に「空飛ぶ円盤を信じますか」と尋ねるのです。当然答えは「ノー」。そこで私はさらに聞く。「なぜ?この種の主張をすべて調べたのですか」。
(略)
私が両者に示そうとしたのは,解しがたい反論を個別にすべて検討するのではなく,既存の膨大な証拠に基づいて理論的に予測することが実に賢く実際的であるということ。

この対談、ちょっと癪にさわる感じの部分があって、どうもむかつくのであるが、まあ勝手に言わせておけばいいので、置いといて…。こういう意味ではいわゆる「科学」の方がまあ、有利な場合が多いだろうけれども。あくまでも、有利なだけ。
また、逆にいうと、根っこまで説明する必要はまったくないということだ。そこはロマンチシズムの世界。むしろ、それを意識せずに「言い過ぎる」ことが一番悪いし、個人的には一番嫌いである(たとえば上に引用した記事のある部分とか)。
あるいは、「信じる」といいつつ、実際には疑っているのもどうも肌に合わない。特に宗教に多い傾向だけど、言い訳が多すぎて辟易したりするのだ。たとえば「疑うな」といいつつ「疑うな。なぜなら…」と書いてあったりして、なぜならだけで本が1冊以上できてしまうことも、めずらしくないわけで(あれとかそれとかこれとか)。


木は、1本につながってなくてもいいじゃない。全く、とはいわないが、構わないだろう。個人的には科学っぽい方を主に信じているけど、結構矛盾があったり亀裂があったりハイブリッドだったりすると思う。
だってさあ、まあ大体みんな、そんなもんだろ。

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