動詞の語彙は豊富な方が、名詞の語彙は貧弱な方が良い?
動詞の語彙は豊富な方が、名詞の語彙は貧弱な方が良いってこと?
…などと誤解を与えることは言わない方がいいな。何やらいろいろいろいろ(あるいは全部)誤解してる可能性がありますからね、おれが。
とりあえず原文をだけ読んだ方がいいと、思う。
「文章の書き方」from『あどけない話』
http://d.hatena.ne.jp/kazu-yamamoto/20080924/1222224226
ただね、タイトルの頭に「効果的な」とか、つけた方が、間違いが減ると思います。「効果的な文章の書き方」。
これさ、いまのおれにはちょっと用途がない知識なんだけど。とりあえず読んでおけばいずれ役に立つ場面はあると思うの。通信社の中の人なんかには、ニュースを書くときに注意してほしいことではあるなと思ったし。(いまいち何が言いたいのかわからないってことが、プロの書いたニュース文を読んだときでもありうるんですよ。多少はおれのあたまの問題かもしれないが。)
あと○○プロジェクトチームとか、包括的○○に向けた××の検討のための□□活発化促進運動推進委員会事務局準備室みたいな名前を付ける人にも。(そこには、どれだけ遠い道のりがあるのでしょう。その名前がどこまで短くなったとき、あなたの願いはかなうのでしょう。)
ま、そもそも、おれがなんかごにょごにょいったからといって「だからどうした」以外に感想の持ちようがないことは、なにを仮定せずとも自明でしょう。ともかく、それがわかっているかどうかに関わらず、もうさっさと上のリンクをクリックすればいいと思うの。
おれ「〜的」とかは、べつにいいの。つつかれてもさほど痛くない。もともとも内容のないことを内容があるかないか(自分でも)あいまいなまま、(自分さえ)煙に巻いてそれでも何か書いてしまった、というようなものを書くのが好きなんだからだと思うけど。そのためには「〜的」的な、「共通理解のない言葉」は効果的な非常にツールです。「なんだかよくわかんねえ」とか、「趣旨が曖昧な文章であることが非常に印象的だった」などと思われる文章。
「文章が下手な人に多い言葉」
とかいいつつも、
「文章が下手な人に多い言葉」
- 行う
- 非常に
- 美しい (単純な形容詞)
- もの
- 〜ことができる
- 〜的
- 注釈と括弧
とつぎつぎにつつかれると、やっぱ痛いな。
どう言い訳しても、自分が「文章が下手な人」らしいと自覚せざるを得ないことは、痛いんだって。
文章が上手でなければならない場面で「おれ下手だけどそれでもこの場の雰囲気を壊さない程度にはあなたを困らなせないつもりだから許してほしいんですうと思ってるなこいつ」という印象しか残らない可能性がある。ましてや、本人が明確にその方向に向かって逃げる努力をしていることもあるので、そりゃもうたっぷり。
でもなんか「痛くてあたりまえだ。痛くしてんだから」って言われてる感じがするんだよなあ。
でーも、痛いなあ。
ほら、もう「感じ が する」って言ってるじゃん。「感じる」でもいいじゃん、と。
厳密には違うけど
- 「〜ことができる」の「和語ではなく、漢語を使え」
という項目に該当したでしょ。
「もの」について
「「もの」は削れ」というのは、刺さった。直すのは無理だからこそ。だってこの安易さからは、あまりにも離れがたい。観念も概念も、ものそのものも、とりあえず「もの」でいいわけで。(ミーンズ「何も言いたくないんだできれば」。)
「「美しい」では、美しさが伝わらない」、「「非常に」は削れ」
これは、そもそも、さほど強い感動を覚えない人間には酷だ。だってととりあえず褒めておきたい時がある。そんなときに「心にもない」ことさえも覆い隠すような行為は、おれには無理。
であるならば、むしろ、あわよくば「きれー」だの「うわーかっわいー」は何かを形容しているのではなく、そもそも、そのように誤解を与える可能性もぬぐえないものの、実質的には「一応の肯定」的なニュアンスを持つ間投詞的な意味合いの方が強いことばなのだ、と、一般に理解されているものと思っていたい。そう思って使用しているのだから、たとえ誤解を与えてもそれは故意ではなく「善意」の産物なのであり、誰も何も悪くないのだといえるようになるのであれば、ここは積極的に使用頻度の向上に協力すべきではないだろうか。
どんどん使おう。
注釈と括弧
ごめんなさい。これは趣味だ。
特にTeXやはてなやWikipediaのようにどんどん注釈してくれとばかりにわざわざ専用の記法まである場合、つい、使って差し上げなければ申し訳がないと使ってしまうこと。そのようなときに「人情というものさ」というんだ、よね?それでも、はてな記法を調べるのがめんどくさいからはてなでは使ってないけど。
それにしても「なんだかよくわかんねえ」、「趣旨が曖昧な文章であることが非常に印象的」な文章がこうも苦労なく量産できることには、その行為が好きなのだと書いておきながら、なお、哀れになりますね…。何かに一縷の望みをかけられるとするならば、それは、さいきんニュース文から「単なる事実」と考えられる範囲を抜粋し、まとめるという益のない作業をたまにしていること、だろうか。