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白石一文作品、3連チャン

昨日の日記にのせた『僕のなかの壊れていない部分』につづき、きょうはこの2作をつづけて(掲載順に)読みました。時期から言うと出版と逆に(たしか、この間に『不自由な心』があったはず)。

すぐそばの彼方 (角川文庫)

すぐそばの彼方 (角川文庫)

一瞬の光 (角川文庫)

一瞬の光 (角川文庫)

どーん。ずーん。
なんかこう、わかってて、というかむしろ重そうだからこそ読んだんだけど。それにしても、やっぱ1日で2冊はおれには重すぎた気がする。どれも面白いんだけどぐちっぽくなるのは、この読み方が問題なんですたぶん。

とくに見た目もぶ厚い『一瞬の〜』は、読んでいてつらかった。手が…とかではもちろんなくて。集中力とかの問題もあったかもしれないけど。何回か、一旦読むのをとめて天井をにらんで何かをやりすごさないといけなかった。ただ「後悔」を抱く部分で止めたまま寝たりすると夢に見そうなので、結局最後まで読んだのですが。批判的に言えば、ああゆう激しい虐待や暴力を触媒にして、状況(日常)を無理矢理変化させていってストーリーを転がす(またはスリルとかで読者をひっぱる)のは、後味としては、正直なんとなく気にくわない。過剰に暴力的な感じがしたというか。もちろんそれを否定したらべつの物語になってしまうけど。こう思ってしまうのはその前に『僕の〜』を読んだせいかな(こっちの場合はどちらかというとコミュニュケーションの放棄みたいな見た目的には「地味」なのが出てくるので)。三島由紀夫が書いたダイアモンドの例(「ダイアモンドのかたさをためすには、合成された硬いルビーかサファイヤとすり合わさなければ…」)の、べつの表現だとしたら、ちょっと卑近、というか安直すぎると思う。
あと、主人公のあたまの切り替えが結構唐突に感じられる(プライベートなやりとりをしてたと思ったら、政策のことを滔々と語りだしたりするのが、あるいみでは自然なのかもだけど。でも、実際に読むとなんがごりごりする)のと、出てくる人間とかテーマが多いこと、あと、ストーリーの進行とエピソードの時系列をあえてずらしてるような感じなところ。これらはいいともわるいとも言えない相対的な印象として、そうだった。1作目だからかな。

『すぐそばの〜』は、語り手本人が、ある事件周辺の記憶が一部を失っているらしいという設定ではじまるから、それはそれでぐちゃっとしてる。ただ、こっちの作品の読みにくさはは慣れの問題だったというか、読んでる人間がわかんなくてもストーリーは進むというか。

『僕のなかの壊れていない部分』は最後の1ページが、うまく理解できない。アニメだけみたエヴァの最終回のように理解できなかったけどそれに勝る。ネタバレになるので、書かないけど。あれは、結局どっちなの?みたいな。それに輪廻思想と、関係性(出会い)が一期一会だというのは別だ問題だよなと、。生きる時代だって、他者との関係としての、相対的な形でしか意味をもたない。と、思ったんだけど「世界」をたとえば「世代」と考えると、まあわからないでもないな、これ。

この作品は、かなり明確に哲学的なテーマが語られるし、しかもわざと改行なしで1ページびっしりうめてみたりするし。読んだことないけど、ロシアのかつての文豪の作品とかってこういう感じなんだろうか…。


ところで、3作とも主人公がエリートで、かつあきらかにエリートの一般的なレールではなさそうな方向へと奔るのは、これは何かあるんだろうか(ちょっと鬼気迫るぐらいに何かあると思っていってるんだけど)。しかも作業量のレベルでさえ、みんなかなり大変そう。あと「香折」と「ほのか」みたいに、あっちとこっちに、どことなくパラレルな感じがある。ただ、物語のフレームワークが似てたり、テーマが何作にもわたって変奏されること自体は別にめずらしくないはずなんだけど。なんかそこに普通ではない執拗さがあるな、と。さかのぼって読んだせいで、よりいっそう、そう感じただけかもしれないけど。

とりあえず、「生きている意味」とか、「生きてるのが(なんとなく)苦しい」とか、ふと考えてしまったり感じちゃう人ってのは、結構いるんだなという認識は得られたけど(この3つ、たしか結構話題作だったし)。でも結局、こういうことを考えるからこそ孤独だとかを明確に感じるのよね。

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