とてつもない根の深さ
米国社会を分断する「人種の壁」。それは誰もが目をそむけようとするものだが、米国に暮らす以上、必ずぶち当たる壁でもある。
と、記事がでてるわけですが。この記事でさえ、「人種」という属性がまず「ある」ものとして書かれる。喜ぶべきことだというニュアンスの文章であるだけに、それが余計に気になった。上の文章だって、「人種差別」があるのは問題だというニュアンスだけど、「人種」という区別そのものはとくに否定していないように思える。
人種にからむ問題って、結局「人種」という概念自体が無力化されない限り、根本的解決にはならないんだろう。
民族にからむ問題って、結局「民族」という概念自体が無力化されない限り、根本的解決にはならないんだろう。
「黒人文化」というのは、それそのままで問題にならない。概念だし、名前だから。
問題は、人々同士の文化の差を、「個性」ととらえるか「差別につながる」ととらえるかだ。
個人的には、文化的多様性は(個人の嗜好として)尊重すべきだと思うけど。
ある種の文化が好きな人にとっては「黒い!」というと、格好がいいという意味の褒め言葉だったりする。
ただ、「黒人」に対して黒人文化を体現する「黒人」になるべきだと活動するのは、果たしてどうなんだろう。趣味のレベルならばいいのだけど。特定の文化圏を強固に(さらには拡大)するためだけに、結束する必要がないのに結束したりするのは、無理がある分、危険性をはらむのではないか。
このような違和感は、別に「黒人」でなくても成り立つ。ある文化と、特定の人々の集団が、伝統的に密接に関連している組み合わせでは、よくありそうな話だ。
じぶんにたとえても、「日本人」に対して日本文化を体現する「日本人」になるべきだと活動するのは、果たしてどうなんだろう。趣味のレベルならばいいのだけど。と、やはり思うもの。
ある意味、政教分離みたいな感じ。政治の話をするときは「人種」を代表しないでほしい。あるいは勝手に代表させないでほしい。「政教分離」的に言えば、「黒人が大統領になった」と喜ぶのはナンセンスだ。
その本来ナンセンスなことが、価値をもち、しかも誰もナンセンスだといわないところに、問題のとてつもない根深さを感じる。