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2つの方向

戦後日本では、どちらかというと社会主義的な方法を取り込み、「富の再分配」を重視し、するような政策が「正しい」というような雰囲気があったと思う。このような、政府が積極的に管理することによる権利の平等は、日本国憲法にある「健康で文化的な生活を」というような面の「平等」の意味とも一致しそうだ。

このような方向性の政策には、社会的な階級が固定された社会において、階層間の差を不完全に吸収する程度に「再分配」することで、結果的にはむしろ階級間の移動や階級制度の崩壊(「下克上」みたいな)に対するモチベーションを弱め、それらを実際に抑制し社会的な安定を実現するという作用があるのではないか。

しかし、このような形で安定した社会では競争することの意味を意図的に削っているのだから、技術開発などの面で積極的な競争が行われにくくなるだろう。また、たとえば新しい製品をつくろうとしても、企業内や政府の官僚主義的な審査にパスしないと実現できず、斬新なアイディアが顕在化しにくくなるという可能性もある。これでは「国際競争力」のような視点で考えたときに、国全体が等しく貧しくなるような経済的な地盤沈下や、世界全体の停滞には対応できない。


一方、すでに十分裕福になり「ハングリー精神」のような武器を失った先進国が、それでもなお技術開発や経済成長をし、「国際競争力」を維持・育成しようとするとき、モデルとしてよくとりあげられるものとして、シリコンバレー型のシステムがある。これは、端的にはハイリスク・ハイリターンな賭けを数多くこなすことで、全体として急速な成長を生み出そうというものだ。そこでは、勝者と敗者の明暗はくっきりわかれる代わりに、チャンスだけは平等に与えられる。

しかし勝者・敗者は暫定的なもので、つねに勝ちつづけない限り生き残ることはできない。また、競争に参加しないことは負けることと等しい。チャンスを食べることはできないからだ。

チャンスが平等である以上、「革命運動」や「独立運動」のような集団的な暴力による社会不安こそ顕在化しないが、そもそも経済的な面では常に不安定な社会だといえる。チャンスが平等にある社会で負けること(経済的にすべてを失うこと)は、あまり大きくない企業や個人にとっては、権利が保障された社会で国ごと没落したり崩壊するのと大して違わないのではないかと思う。

また戦争のような集団的な暴力を起こす一番のモチベーションは、だいたい経済的な危機だという主張もある。だとすると過度の経済的競争はあまりにもリスクが大きいのではないか。


現在は、全世界に対しての、米国の影響力が強いこともあり(ここ10年ほど米国全体がシリコンバレー的経済を指向してきた)「グローバリゼーション」とか「国際競争力を強化する」とかの方向性が強いが、それでも、新しい枠組みが発想されない限り、実際に現在そうあるように上記2者の折衷による社会しか存在し得ないのではないか。


ところで、いま一番気になっているのは、現在のチャンス平等・競争優先型よりの折衷型社会では「貧富の差」が広がることが問題になっているが、前者も実はあまり抜本的な解決にはならなそうであることだ。知っている中ではある意味で最も過激な「富の再分配」がされているのは一般の社会主義国家ではなく、スウェーデンあたりだと思うのだけど。しかし全世界があれをやるのはあり得ないだろうし、少なくとも日本では当分ないだろうから。だとすると、いまのままでは「貧富の差」の強化による階層社会の形成は避けがたいようだからだ。

などと他人事のように書けるのは、まだ自分がそれほど危機的な境遇にはないからなんだけど…。

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