だまんです。

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黄色い目の魚、再読。

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黄色い目の魚 (新潮文庫)

黄色い目の魚 (新潮文庫)

佐藤多佳子『黄色い目の魚』は今まで読んだ中でいちばん印象的だった本のひとつになっている。
はじめて読んだのは、たしか高2。
この「印象に残る」というのは、もちろんそれが「良い作品」であることも必要なのだろうけど、同時に自分の年齢や周囲の環境と作品との「相性」も重要だと思う。
文庫の解説で角田光代が「もしできるなら、私はこの本を、高校生の私に手渡してあげたい」と書いているのだけど、これの単行本が出て、初めて読んだとき、じぶんも高校生(厳密には高専生)だったのは、ほんとに幸運だった。


その頃ちょうど、『サマータイム (新潮文庫)』にまとめられた2冊の単行本と、『スローモーション (ピュアフル文庫)』の単行本を読んだばかりで「佐藤多佳子というすごい作家をみつけた!」と興奮していたところだった。だから発売されたばかりの『黄色い目の魚』にはすぐに飛びついた憶えがある。ほんと、タイトルと表紙を見ただけで、個人的には、このタイミングで新作が出るなんて運命だと思って興奮しました。

黄色い目の魚

黄色い目の魚

これが俺が初めて読んだ方の版。
はじめて読んだときの印象は、主人公たちの目のつよさ。めちゃくちゃぎらぎらした目、という感じ。主人公2人が、常人にはないような、とても魅力的で強い目をしていると感じた。つよすぎて心拍数あがりっぱなしだった。


のっけからサッカー少年「悟」が、一緒に暮らしていない父親である「テッセイ」の描いた絵を見て、
「リフティングなんかすごいうまいヤツの、足下にピタットくるパスみたい」にうまいけど、
「でも、そいつ、試合じゃ絶対シュート決まんないの」と表現するのだ。
「どれが好きって聞かれたら、困るな」、「へたくそでもいいから、もっと面白い絵を描いてくれたらいいのに」と、自覚してないのだけど、酷評するのだ。実父なのに。
当時の俺は、このまっすぐで鋭敏な目を持つ少年にあこがれ、こわいとも思った。そして、こんなにナイーブな人間がこの後どうなるのかもこわかった。こいつは、一体どうなっちゃうんだろう、と、つい思わされてしまう。
で、ぐんぐん引っ張られて読んでいくと、次章では「1時間に5コはムカつくことにぶつかり、3回はバリバリ腹を立てる」というとてつもない、まっすぐなエネルギーを抱えた「みのり」にぶつかる。
そして主人公2人(みのりと悟)は、つぎの3章目で、高校のクラスメイトとして交錯する。「クラスの似顔絵屋」を自称する木島(悟)が、みのりの友達の姿を描いてるのを、みのりが気づいて見咎める場面だ。

英作のノートに漫画のカットみたいな小さな落書き。あれ、須貝さんだ。息がつまった。すごく似てる。かわいそうなくらい似てる。突っ張ってる感じが。無理して棒っきれみたいにシャンとしてる感じが。なんか悲しくて。滑稽で。みっともなくて。
「なんで、こういうの描くのよ?」
 (略)
「描きたいから」
 (略)
「なんで、人のヤなとこしか見えないの?」

みのりも目がいい。それが悟と出会うことで、見ることに自覚的になって、さらにその力をみがいてく。悟の視線の強さのが明確に描かれている気がするけど、(村田)みのりも

「もっと描いたら? 絵をたくさん」
 と村田は言った。
「もっと」
 言葉を選ぶように間を取って、
「本気で」
と強く言った。

と指摘する強さを持っている。

「本気って、ヤじゃない?」
 俺が聞くと、村田は理解できないという顔つきになった。
「こわくねえ? 自分の限界とか見ちまうの?」
 (略)
「俺、そんなの見ちまったら、二度と立ち直れない気ィするよ」

高校生の俺は、この部分を読んでビンタ飛ばされた気分になった記憶がある。こいつらが「本気」というときの重さ、ことばを使うときの覚悟がすごすぎて。


角田光代がいっている「(登場人物を好きになってしまう)魔力」は、高校生の俺にとっては「目がすごい」ことと「視線の強さ」だったのだと思う。だから、この物語を読んでしまうと「俺はどうだろう?」と自分の姿を見つめざるを得なくなった。
その視線の切れ味が、こわかった。


こわすぎて、読めなくて、文庫が出たりしても躊躇していたんだけど、今回やっと読みなおす気になりました。


不思議なんだけど、以前は、これが実は大河ドラマ的なロマンスだって気づかなかったんだよね。なんで「大河ドラマ的」かというと、普通は出会って、過去の説明があって…となるのに、まずいきなり「生い立ち」から始まるわけ(そのイントロが長い)。で、解説にも書いてあるけど周囲の人たちも、面白い。
さらには「恋愛」要素の量を見誤ってた気がする。その辺に、さほど目がいってなかった。前読んだときの記憶だとは、なんか「はまりそうな(うまくつながってほしい)天才2人」が「ばちんっと視線がぶつかり、ひかれあう」までの経過「だけ」を描いた作品だと思ってたんだよね。これはひとえに、悟の視線しか持てなかったから。「好き」だと言葉になるのはみのりのが早いけど、実際結構そういう雰囲気はもっと早くからあった。いま、主人公より6歳も年上になってみると、両者に公平に見れるようになったのだろう。
同時に、手を動かせる(努力できる才能)という意味ではたしかに「天才同士のカップル」だけど、悟が絵を描くのは「癖」、練習する前から「いい線を描く」というのに対し、みのりはそうではない。みのりは、天才というよりは意思の人なのだ。
だから、以前読んだときは主人公たちは「天才のカップル」だと認識していたから、実は感動と同時に劣等感を刺激された記憶がある(俺は才能が無い=俺はつまらない)。天才にはひたすら憧れるしかないから、「自分には、才能があるかないかは、わからないけど。とにかくがんばろう」と悟だけを見て思っていたのだ。
でも、本当はそうではない。ちゃんと、みのりの生き方も含めて見なおせば「好きなことをがんばればいい」というメッセージもはいっている。
これは、すごい誤解だったなと思う。
それに、前半のぎりぎりに張りつめたイメージのが強かったのか、切れ味するどい刀で切り結ぶ場面の連続みたいなイメージだと思い込んでいたけど、実際にはそれだけではなく、主人公たちが成長して、半ばくらいからテンポはゆるやかに、しかし太い流れになっていく(実際、頭としっぽで書かれた年代が違ってるらしい)物語だった。それは高2の初読時は、「こことここで書かれた年代が違う」なんて書いてあっても全然違いがわからなかったけど、いまは分かるのと同じことだと思う。


しかし、いま思うとぜんぜん読めてなかったところがあったけど、でも「ショック」を受けられる感受性は最初に読んだときのが強かったから、やはり当時高校生の歳で読めたのは幸せなことだったと断言できる。それに、勘違いは若さの特権かもしれないし。
でも、20代でいうことではないかもしれないけど、歳を取るのも悪くない。こうやって若気の至りを含めて楽しむことができるのだから。生きつづけていくということには、こういう種類の面白さもあるんですね。
そして「俺もちょっと歳を取っちゃったけど、そっちではどうしてますか?」と2人の近況を知りたくなった。このあとどう生きていったんだろう、と思いを馳せずにいられない作品だ。

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