まず、前にmixiの方には書いたかもしれないので詳細かかないけど、ネット上において、実名とハンドルネームの差はさほどないはず。なぜなら名前を出すことで信用が担保されるとしたら、名前と結びついた人間関係があるからだ。だから、重要なのは「名前と結びついた人間関係があるか」であって、ネット上では実名とハンドルネームの重さみたいなものに本質的には差はないと思う。
梅田望夫『ウェブ時代 5つの定理―この言葉が未来を切り開く!』には、以前にも言及したかもしれないけど。それにしても、さいきん梅田望夫の論に対して、ときおり冷淡な目をむけている自分がいて、自分でもびっくりなのですが。なんなんだろうな、この感覚は。
さて、ここでこの本を持ち出したのは、「2ちゃんねる」と「Wikipedia」の両方を扱いながら、これらがどちらも匿名性を持ちうるという、その類似点について、なんか妙に軽視しているから。梅田は、2ちゃんのような日本独自の匿名性のシステムが、日本のウェブの発展を阻害しているというようなことを書いているが、この書き方はちょっと勝手すぎると思った。
たしかに一時期2ちゃんが一世を風靡したころもあったが、いまはそうでもない。その後もネット文化に大きな影響を与えているのも確かけど。いまやmixi、Wikipedia、各種のブログ・プロフ、Youtube系の動画配信など、コンテンツの発信方法は多様化して、以前のような2ちゃん一極集中状態はみられない。もはや2ちゃんの直接的影響力は軽微だといっていいと思う。
だいたいこの本ではないけど「51:49で…」などと言ったのとも、どうも矛盾する気がする。
匿名であっても、あるいは匿名だからこそ自らの欲求や、憲法用語の「良心」のようなものが発揮されやすいという可能性は考えられないだろうか。ここでは「私はこうしたほうがいいと思う」というのを「良心」と呼ぶとして。おれは、当事者としてではないが、そのような場面に出くわしたことがある。現実的にも「みんなけっこういいひと」だと信じて行動している。それと、2ちゃんねるを例として表されるような匿名性は、場を荒らすことを忌避するような良心の持ち方があればこそ、「あの程度で済んでいる」とも考えられる。2ちゃんは悪意の集合のように言われる場合があるが、実際のところ、それはそのような面が目立つだけであって、悪意と善意の「量」を比べれば、圧倒的に善意のエネルギーのが強いはずだ。そうでなければ、そもそもコミュニケーションが成立せず、「場」として機能せず、こんなに注目されていないだろう。
さて「自らの欲求や、憲法用語の「良心」のようなもの」と書いたけど、過半数以上の人は、このようなものの方向が一致しないにしろおおむね衝突しないと思う。つまり、世の中誰から見たって「悪い人」はそんなにいないでしょ、と。特に、他人に故意の悪意を向けられる人は。
まあ、だとするとというか、現実的にそういう場面のがよくあるけど、怖いのは「良心」の衝突や暴走。ちなみに、これに関しては、もう匿名かどうかとほぼ関係ないので、別の問題として扱うべきですが。もちろん、上に書いた通り、匿名だと良心がはたらきやすく、つまり暴走しやすくもなるということはあるかもしれないけどね。善意のが「摩擦係数が低い」とは、宮台真司の言葉だったかしら。そういうことですが。
ちなみに、ここもflashingwind名義になってるので、匿名といえば匿名なんだけど。でもmixiへのリンクがあっちこっちにあるし、mixiプロフでは実名全公開なので、おれの名前は結構簡単に見れます。あとmixiじゃないけど、顔も。これは労力の問題。
まあ、あえていきなり書いてないのは、Googleで実名で検索したときに引っかかってほしいとは、積極的には思わないということ。あと、実名のようなハンドルを使ってると、どうも相手によっては逆に「引かれる」という副作用がありそうでね。