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だまんです。

プログラミングや写真や本や読書会のことや、日常のこと。

強すぎるミーム

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母語といっしょにおぼえた価値観を、客観視できるようになるには、やっぱり思春期の葛藤なくしては無理なのかな。
ぼくが、「頑是無い」というか、そういう意味で子供だったのは、いつまでだったろう…。とかいって、けっこう何も考えてなかったので、最近なんじゃないかという気もするんだけど。


そもそも、大概どこの、どんなおうちもこの手のミームを背負っている気がする。なぜなら親だって人で、その価値観を支えている何かがあるだろうし、子供はそれにねじまげられるからだ。強引な言い方をすれば、幼い子供が見た、若かったころの親そのものなわけだ。
実際にそれが、子供の先天的性質と相まってどう作用し、さらにその子供の人生が社会的にどう受け止められるかは予想できないけれども。

しかし、強力すぎるミームは時に精神の有り様を歪めてしまう。

これは、なにも宗教でなくとも、「がんばればできる」的な努力神話みたいなものかもしれないし、イデオロギーとよばれるものかもしれない。(子供にとって支離滅裂な)メッセージを強く受ければ、親にしたがう「いい子」になるかもしれないし。逆に、価値観を構築できなければ外に求めて宗教や学問にはまるかもしれない。ちなみにうちのは「スピリチュアル」とか「マクロビオティック」とかそういう感じのものだった(最近でも、父親と話してたら、父親がID仮説に傾いていて、若干ショックを受けたりしましたが…)。


「親のいったことをきちんと疑えるようになった」記憶として、「ケミカル」という言葉の意味の変化が印象に残っている。
小さいころ、ぼくはなぜかケミカル(石油化学製品)を「わるいもの」として認識していて、冗談ではなくプラスティックなどを口にしたら体に悪いんじゃないかと思っていた(もちろん、ものによります)。
幼いうちはある程度しょうがない。そもそも凡化能力がないので、「たべちゃだめ」と教わったものしか分からない。
ただ思春期の初期ごろになって、あれもこれも石油製品だとわかっているのに、なぜ「わるい」かが分からない段階があって困った。しかも潔癖の気が出てたので、本当に困った。困ったからこそ、そこを広げて窓にして、前提を疑えるようになったのだけれど。


どんなものでも、強く押し付ければ「強すぎる」ミームになる。
なので(個人的にはあまりありそうでない将来ですが)、自分が親になった時にできることって「強すぎるミーム」を意識することではなく、子供の選択を自分の価値観でつぶしすぎないこと、だろうか。
基本的な価値観を、内側に求めることができればいいんですけどね…。

自分がいかにその宗教を素晴らしいものだと思っていたとしても、他人にそれを話す時は慎重であるべきだ。少なくとも、自分で判断する理性を持たない子供に対しては、いくら子供のためと思っても、押し付けない方が賢明である。


だから「娘がおれの服と別々に洗濯してくれといった」り、「娘に“同じ空気を吸いたくない”といわれた」からといって嘆かないようにしたいですね^^。子供がなんとかして親を、親の目を通した世の中を、相対化しようとしてもがいているんだから。(いやあ、子育てって、たいへんですねー。)

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