プログラマーになりたい。

プログラミングや写真や本や読書会のことや、日常のこと。

「やっぱり「おれは生きる」」

いざとなったら、「業界」なんてなくなったっていい。
そういうとずいぶんひどいこと言ってるみたいだけど、「あんた」は「業界」なんていう観念に、愛を捧げる必要なんてないんだ。「おれはこの業界が好きなんだ」ってね、必ず言いたがるやつがいるんだよ。信用できないね。
好きな仕事をしていた、ということもわかるし、その「業界」にいい仲間がいたかもしれない。その「業界」のお客さんのことも好きだったかもしれない。
だけど、「業界」は人ではないし、「あんた」をきっと守ってくれる組織でもない。


「あんた」は、「あんた」が幸福に生きていくために、どうしたらいいのだろうという問題を、ほんとに真剣に「心配性する」べきなのだ。

くねくねぬるぬると、生き物ってのは、かたちにならないような生命感を発揮して、生き抜いていくものなんだ。
心配性の原点は、やっぱり「おれは生きる」だろう。
ちがうか?

と、引用ばかりですが。
ぼく、「どっこい生きている」(『平成狸合戦ぽんぽこ』のエピローグから)って言葉も、すごいなあと思う。

「業界」のこと

不全世界の創造手(アーキテクト) (朝日ノベルズ)

不全世界の創造手(アーキテクト) (朝日ノベルズ)

最近これを読んだのだけど。


既存の「業界」の構造とか利権とかそういうものってほんとにあらゆるところに絡んでいて、なにかものをつくると、あるものを壊してしまうというジレンマは、あるよなあ…と思ったのだ。
この小説にはそういう「抵抗勢力」みたいな人々が何度も出てくる。


実際に、それはもうITとかいう新しそうな分野でも商売である以上いたるところに、そういう構造がある。最近だと国内携帯の「ガラパゴス」状態がいつまで持つのか、みたいなことがある。

利他的精神は大事。本当に大事。だけどそれで自分の幸せを失うのは間違ってる。地球のことも、派遣のことも、世に心配は尽きないけど、まずは自分と自分がなんとかできる範囲の幸せについて、それだけを徹底的に考えるべき。

あとね、われわれは人間です

あと、じぶんが人間として生きていくことを否定しちゃうような行動は、続かない。「じぶんは生きている人間だ」という事実を受け入れられない思想や思考は、やっぱり人間にはきついんだと思う。

心配なときというのは、余計な心配をするのだ。ほんとうの心配と、その解決についてさえ/どうすりゃいいのかわかりゃしない時に、もっとどうしようもない問題まで、心配しはじめちゃうものなのだ。

「ダーリンコラム」には名前としては書いてないけど、この、余計な心配、心配が雪だるま式に増大するところに、「うつ」の入り口があるように思う。
なんか、なんどもじぶんで勝手に押しつぶされそうな感覚を作って、味わって、自家中毒におちいってると、さすがにだんだん慣れてきて、デッドラインがなんとなくわかってくるみたい。
視野が狭くなって、解決手段を講じることも考えることもなくなって、考えるのは問題そのものの「味わい」だけ、みたいな状態。
考えても解決しない問題は受け入れるしかない。
あるいは、視野が狭すぎて、じつはすぐ近くにあるボタンを押せば解決するのかもしれない(ときに、すごい勇気が必要だったりするけど)。


とりあえず、どうでもいいことが多い。死なないし。
飯でも食って1日休んでから考えましょう。
と、やっと覚えました。

Creative Commons License ©2007-2021 IIDA Munenori.