だまんです。

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どちらが「科学的」かという「濃淡」

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遅い引用なのは、引用文を下書きのまま保存してあったからなんですが。
でも、エセ科学がどうの、その批判がまたどうのという議論は独特の不毛さがあってつきあいきれない(ああ、なんて不毛な - nikki-da)とか、書いちゃったし…。
どうしようかと思ったんだけど。
でも、やっぱ、紹介しておくべきと思うので。

この話題は科学の実在論の議論とも関連しますね。つまり、科学で描かれるような世界が厳然として存在していて、科学者たちはそれを「発見」しているんだというふうに考えるか、考えないかという問題です。例として挙げられた教育上の構成主義は、この点を留保して、どちらにもスタンスを切れるというようにする配慮から生じているのかもしれませんね。あるいは反実在論の立場を意識させているのかもしれません。

まあ、しかし世の中に存在するものは、たとえそれが人造物以外でも、人間の感覚(及び感覚補助機械)と思考力の枠組みの中で「存在」しているということになっているわけですから、ことさら、科学のどの分野が構成主義的であるか否か、と騒ぐ必要はないと思います。すべからく「存在している」と見なしているものは、時代や社会の影響、あるいは人間の主観の影響を受けているとも言えます。科学哲学者クワインは、物理主義的ドグマは「神話」と称しましたが、そこまで煮詰めなくても、すべからく人間のその時点での知識を背景にした思考(知性)の枠組みの中であると言えます。そして知性は「なぜ」と問うことですから、知性がなければ人間と人間以外の区別も揺らいでしまいます。

これではどれもこれも一緒、所詮、時代と社会の産物という極端な話にまで行っちゃう人もいます。ところがこういう人たちも、何か基本になる考えが根底にあるからこそ、どれも頼りないと言えている部分もあります。また、日常的に私たちが、比較的こちらのほうが「客観的」だなとか「科学的」だな、あるいは「生物学的」だなと考える濃淡はあるわけです。従ってその濃淡をどのように私たちが決めているかということを考え抜く必要はあると思います。それを考え抜いていない分野や学会は要注意と言えましょう。

こんな事を考えながら、私は哲学講義を受講する学生さんに対して「自分の学問分野の教科書を見た場合は、その教科書に哲学あるいは科学哲学を意識した記述があるかどうかをチェックしなさい」と勧めています。「客観的」であると無前提に信じていればいるほど、実は情報がふらついていたり、何のためにやっているのか分からなかったりする場合があります。要素還元主義のみを科学と決め込んでいる場合なんかその1つの例でしょう。そういう意味では、疫学は、これらの点に関して最も考え抜かれ、具体的に議論されまくっている方法論です。このような議論自体も、実は疫学の範疇でもあります。また宣伝をしちゃいましたね。でも疫学を「守る」つもりはありません。疫学に関しては守るものなど何もないですから。


投稿 津田敏秀 | 2005.11.22 19:18

個人的に興味深いのは3段落目。「どれもこれも一緒、所詮、時代と社会の産物という極端な話にまで行っちゃう人」たちを比較的離れて冷静に観察してる人というのは結構珍しいと思う。
それにしても、「疫学を「守る」つもりはありません。疫学に関しては守るものなど何もないですから」というのはかっこ良すぎるよ!

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