ここのところ、じつは「WEB本の雑誌」が「たなぞう」サービスインしたり、コンテンツの総入れ替えがあったりとかなんだか変だとは思っていた。というか、そもそもいつからか知らないがサイトのコピーライトを見ると博報堂がかんでいる。
つまり妙に商売気が強くなっているような雰囲気がして、これも時代かなあなんて思ってたんだけど。
こういうのも、経営危機と絡んでいたのかしら。
経営危機だったのは以下のエントリを見てきょう初めて知った。
公式には「本の雑誌」2009年1月号(椎名誠のコラム『今月のお話』や浜本茂の編集後記)で、本の雑誌社が経営危機にあることが明かされていたとのこと。ところでいまさらだけど、発行人だった目黒考二氏も、2001年にはすでに顧問に退いていたそうだ。
「本の雑誌」(本の雑誌社)の経営危機について
ウィキペディアで見たら、1976年から続いている(いつから月刊になったのかは知らないけど)A5判の雑誌です。ダ・カーポとか正論とかと同じ判型。本に関する話とか新刊書評(案内)が出ていてなかなか便利なんだけど、取次を通して流通していないのかな、置いてある書店にしかないのが不便なのでした。
昔はこの手のミニコミ系雑誌ってけっこう出ていたと思うのですが、そういうのの数少ない生き残り。最近は読者投稿などを見ていると高齢化が目立ってましたが、そんなに経営が、急激に悪くなっていたとはしらなかった。まぁ、また昔のように隔月刊とか不定期刊とかにすればいいんじゃないの、とハタからは思ってしまうんですが、そうもいかないんだろうなぁ。寂しいことです。しばらく寂しい話が続くことです。
椎名誠は「ストアーズレポート」という流通業界専門誌の編集者から、作家へ。この、1人の「無名」スーパーサラリーマンが、本格的に脱サラさせられ、有名人になっていくという過程はエッセイ・小説などにも描かれているが、まとめているページがあった。
始まりは70年、まだ26歳だった椎名誠が編集長を務めていた雑誌「ストアーズレポート」には、ソウル大好きな菊池仁と、その大学の後輩という目黒考二が編集部員として在籍していた。だが間もなく、目黒は自身が著した「本の雑誌風雲録」にも書かれているように、「本が読めない」ことを理由に「ストアーズ社」を退社する。
退社後も「SF」という共通の話題が縁となって、目黒考二は椎名誠と酒を呑みながら「SF」談義を続けていた。ときどき菊池仁や沢野ひとしが加わって、ブンガク談義などをしていた酒呑み会が、1カ月半ほど途絶えたある日、レポート用紙で20枚ほどの分厚い手紙が、目黒考二から椎名誠のところへ送られて来た。やがて読者が増えて50人ほど読むようになった「SF通信」を、本格的な(といってもミニコミの)雑誌としてえいやっとばかりにしてしまったのが、かの「本の雑誌」という訳だ。このあたりもやはり、目黒考二の「本の雑誌風雲録」にくわしい。
目黒考二の「本の雑誌風雲録」と、木原ひろみこと群ようこの「別人「群ようこ」のできるまで」を読むだけでも、「本の雑誌」がマイナーからややメジャーへ、そして押しも押されぬ大メジャーへ(といっても本人たちはそうは思っていないかもしれないが)と進んでいったプロセスを知ることができるが、これら「本の雑誌前史」に「本の雑誌血風録」を加えて読むことで、入社前だった木原ひろみが「別人「群ようこ」のできるまで」では語ることの出来なかった、最初は文芸批評誌っぽかった「本の雑誌」が、今あるような娯楽路線へと変わった「石の家のクーデター」の真相を、椎名誠自身の文章から知ることができる。
椎名誠だと、個人的には中学のクラス文庫にあった「あやしい探検隊」から入ったので、ああいう紀行文のイメージが強いのだけど。ところが、ここ数年ぐらいだろうか、椎名誠の著作から、ついコミカルにいくようなクセが抜けて、その分、凄みが増していると感じるようになっている。
そもそも「あやしい探検隊」でさえ、拭いきれていないノスタルジーみたいなもの、過去への思いが感じられる。だから、おそらく、これが椎名誠の中にある、動機なのだろう。
ところで、「戦中派」でも「戦後派」でもなく「戦腹中派」だなどと書いてるのを読んだことがあるので、おそらく普通ならそろそろ定年になる歳だと思うんだけど、いまだにがんがん走りに走っている。しかし、走るときに振り切ってしまった、その振り切ったものへの思いを、一方では、どんどん積もらせているんだろうな(だから弾切れにならないんじゃ)…と。