はげしく同意、ではなく、はげしくどうでもいい気分
そういう気分は、よくわかる。一方的にですが。いや、うつにもいろいろ方向性があるみたいなんですが、その方向が、近い匂いがする。ヒロイックには、死なないところも。
- 作者: 滝本竜彦,安倍吉俊
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2006/06
- メディア: 文庫
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もっとも、おれは、彼(太宰じゃなくて滝本さんの方ね)ほど度胸がないので、精神世界とか哲学も、ドラッグ体験も、エロゲ体験も、ひきこもり方も、思い込み方も、どれもこれも中途半端ですが。あとがきの前に「ハウツー」までが書いてあって、ほんとすごいとは思う。おれは、そういうのを、ごく軽く、あるいは完全にパスしていきなりネタ切れになった人ですから。たぶん、作家になったりしない程度に、もともといろんな物が薄いということ。
ああ、そうか。相当ぶっちゃけた、その後の感じが似てるんだ。
ぶっちゃけた後のすっきりな時期も過ぎて、あれ、ネタがないよ?って感覚なのが似てるんだ。別におれは小説家ではないけど、最近何やったらいいか思いつかない。「ネタ=じぶんができること」だとすると「ネタ切れ」でひまになる。まあ、あまり重くない本をいっぱい読むのが好きなので、別になんとか時間は過ごせるけど。ただ、やっぱときどき、あれ?って感じになる。
そういう意味で、本編最後の、最初に戻っちゃった…な感じのあたりは、なんとなくおれの現在の心境に近い。おれは輪っかが小さいので、ほとんどその場から動かずにくるくる回ってるだけだけど。
ふと電車の中で、じいさんやらばあさんを見て、うらやましくて泣きそうになったりすることがある。
何がって、たぶんマイナス方向の「不確定要素の少なさ」みたいなの、かな…。これ以上よくはならない分、そんなに悪くもならないだろう、とか。安定してていいなあと。
つうか、だってさ、もう堂々と「余生」できるんだもの。うらやましいじゃん。こっちは肩身が狭いんだもの。
で、そこまで何十年も歩いて来たのかと思うと、それだけでとてもすごい人だ、と本気で尊敬する。
ほんと、じぶんを持て余したときはどうすればいいのでしょうか、と聞いて回りたい。なにもできないまま、もうすでに余生を生きている気分なおれは、どうすればうまくすごせるのかと。
このつまんない人生を何度もくり返す地獄というような「永劫回帰」の話が書いてあったんだけど、生きなおすわけではなくても、なんだか似たような日々を延々とやりすごすことには「永劫回帰」に似た残忍さがある。だから、とりあえず「永劫回帰」の外に一旦出ることができる年齢の人々の、純粋な「余生」をうらやましいと感じるのだろう。
あーあ。本気で考えるだけの価値を感じられるのは…なんだろうなあ。ああ、人の役にたって喜んでる顔をみることかな…。
滝本さんが行き詰まってたのは、たぶん日常と創作が乖離してるせいだろうと思う。いつもつい考えちゃう内容が、うまくものがたりの形にぽこぽこまとまるタイプの人だと、そういうエピソードを重ねて原稿書いちゃうんだろうな…と。そして、架空の他人たちの物語とともに生きずにいられない人々って結構いるんだと思う。
そういう意味では滝本さんも架空の人物といっしょにいるのだけど、彼女の存在は単独では、作品の主役にならないものだからちょっとちがう気がする。主役=自分、ヒロイン=架空の人物、みたいな。主役=ヒロイン=架空の人物になれば、自分の身にまったく降り掛かってないネタを平気で日常的にでっちあげられるようになるんじゃないかと思う。
体験は感情か、雰囲気か、知識か、どれかだけでいい。それだけでどうやら十分物語の真実味は達成されるように、おれには思えるから。
そのボーダーを超えた、新しい局面からの作品を読みたいと思う。