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自分は自分の父親ではない

うちの父は(めちゃくちゃ職住近接だった)社宅暮らしていた頃でさえ、あまり家にいた印象が無かった気がする。ともかく、両親の離婚でおれが母について東京へ引っ越し、伊豆に残った父とに離れて暮らすようになっても、なぜか父の不在を感じなかったのはたしかだ。「おとうさんがいなくて、さみしい」とか、「おとうさんに会いたい」と思ったことがない。


そのぶん「父親」が担当しそうな、家庭での役割(電球をかえるとか、子供(弟)に説教するとか…)をじぶんが無意識にこなそうとしてきた。


また、そういう「身長が母より高いから」とかの現実的な根拠のある事項をのぞいた、意識だけのレベルでも、「なにかがあったら自分が家族をまもらないといけない」というような義務感を感じていた気がする。


ということに、さっきふと気づいた。ここ1年ぐらいの精神的な不調の原因の一端には、こういう無意識からくる何だか分からない負担感があったのかもしれない。だから当然じぶんのことはじぶんで決断し、責任をとる。責任を取れないことはしない。みたいな価値観が形成されたんだと思う。にもかかわらず、自分の面倒が自分で見きれていないから、きつい。


また、一般的に子供が家を出る場合は「独立」とかいうけど、父親が家を出るといったら「家族をすてる」というニュアンスがつきまとう。おれの場合、実家内での父性と子供性を勝手にまとめて引き受けてしまったために、なんとなく家の外に意識のベースをおくことに罪悪感があるのかもしれない。


しかしすでに、もう実家を意識のベースにしつづけることには精神的に無理が出ていて、実際に、実家にいるときはなんとなく居場所が無い感じ、半分他人の家にいるような感じがあって、なじみのあるお店にいるときのが、まだ「ホーム」な感じがあってリラックスしていられる。

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