だまんです。

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愛国的な反ナショナリズム、反全体主義

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半世紀くらい前に、ジョージ・オーウェルというイギリス人作家によって書かれた、時事や政治的態度にかかわるエッセイを収集したもの*1
当時の左翼らしいのだけど、いまだったら自民党とか民主党にいてもおかしくないと思う。
大英帝国のことを読んで、それにしても、アメリカに「黒人」大統領が誕生したことには驚かないくせに、いまだに人種とか民族にこだわるのって一体どういうことなんだ。このころと本当に変わってないじゃないか…などと思ったり。

右であれ左であれ、わが祖国 (1971年)

右であれ左であれ、わが祖国 (1971年)

第一次大戦中から戦後のヨーロッパにおける状況とか固有名詞を知らなかったので、思想や雰囲気しかわからないけども、ほとんどの部分は、いまでも十分実用的に読めた。


というか、あまりにも問題意識自体が変わらないことにおどろいてしまった。同じようなことを考える人はいつの時代にもいるのか、この(1940年代)頃より後に、やってること自体ははあまり変わんないのか…。

ナショナリズム覚え書き」

最近、外へ行ったり、外からの力への反作用として、「愛国心」とかいうものに気づく人が多いようだけど、アウトプットがあまりも型にはまってて気持ち悪い。じぶんの変化にもっと自覚的になれよといいたくなるような、お粗末な言動が多くておどろく。そういう流れがあって、よけいタイムリーに感じるのかもしれない。

彼が望むのは自分の陣営が相手を打ち負かしていると感じることであって、そのためには、自分の主張が事実に合っているかどうかを調べるよりも、的をへこます方が近道なのである。…ナショナリストの中には、現実の世界とまるで関係のない権力と征服の夢のなかでのうのうと暮らしている、痴呆症に近いような者もいる。
(p.97)

類型的な全体主義的なナショナリズムについてわかりやすく分類して批判しているのが、「ナショナリズム覚え書き」という章。さいきんの「ウヨク」のもつ心理的な構造は一体、何十年間進化してないんだとびっくりする。

左翼インテリ、ハイブロウ、プリンプス

(当時の左翼インテリは精神的傾向として)全体に不平たらたらの否定的態度で、いかなる場合にもなんらの建設的意見を持っていない

(それは政権につけないものによる)無責任なあら捜し以外何もない(p.291)

一度も政権を取ったことがないものによる、幼稚な議論ばかりだ、という批判は現在でもみるが、一方で、それだけの理由で現政権の方向を是認できるというのは変だという面も見落とすべきではない。

オーソドキクシーを容認することは常に未解決の矛盾を受け継ぐことである。
(p.172)

たとえば、それだけの根拠で現政権の方向性に賛同しろといわれても困る。


あるいは日本では、社民党政権が成立し潰れるまでの、90年代半ばくらいまでは優等生というのはイコール「なんとなくリベラル」であったようだから「反主流」を気取りたいだけかもしれないが。


たしかに、どんなものであれ、制度や政策を創造した人たちは、相応の労力をはらっているわけで。ある種の左翼が創造的でないとか、手を汚さない平和主義が無力だとかの批判も、わかる。

過去十年間イギリスのインテリが純粋に否定的な生き物、単なる反プリンプスとして特殊な地位を占めたのは、支配階級の愚昧さの副産物であった。…社会は彼らを使うことができなかった…。…プリンプスもハイブラウも、まるで自然の法則であるかのごとく、愛国心と知性の離婚は当然たと考えたのである。
(p.292)

イギリス国民が数年間士気沮喪*2に苦しみ、そのためファシスト諸国が…戦争に突入しても大丈夫だと判断したのだとすれば、左翼からの知的サボタージュにも一半の責任はある。
(p.292)

というのが、戦後ずうっと続いたのかもしれない。ともかく斜に構えてるだけでは、運営できない。これは、いまでは左翼だけの問題ではない。なぜなら日本の戦後体制は基本的な合意として、左向きであれば安全だというような幻想があったが、ついにこれに対抗する流れが台頭しているからだ。


ところで、あきらかに著者はタカ派になっていくのだけれども、それは戦争のえげつない面を認めつつ、その上で、なぜ戦うのかを考えていたように思う。
だから、たとえばドイツのV1・V2ミサイルに攻撃された当時のイギリスと、北朝鮮のミサイル脅威の前の日本、と結びつけて考え、いますぐ日本も戦時体制をとるべき、というような論は安易だ。
最近の国内の改憲論議とか、どちらについても、それこそ「右であれ左であれ」、あまりにも無邪気に見えて不思議になる。守らないといけないからとか、平和な方がいいからとか。それだけ聞いても、どのような事態にどう対処するのか、予測できないので賛成も反対もできない。
何を守り、何を守らないのか。平和を守るために平和でなくなるという、葛藤はないのだろうか。


ともかく、政治や思想の言葉に手を染めるなら、このくらい自覚的でありたい。というか、あってほしい。
ちなみに、ぼくは、やられるなら個人的には逃げて放置して泣きたい。ただし追い立てられたら戦場には行くかもしれない。目の前の暴力には逆らえないです。卑怯者ですが。しかし、それと、各戦争の遂行についての意見は別だということだ。

*1:右であれ左であれ、わが祖国日本 (PHP新書)」という本を読もうと思って調べたらいっしょに引っかかったので、タイトルの元ネタと思われるこちらを先に読んだ。

*2:沮喪=さそう

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