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国家の全体最適はネーションステートの幻想

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こんなタイトルをつけると、おお、おれまるで極左!あるいはアナーキスト!みたいですが、そんなでもないよ。
幻想というと無駄なようですが、システムといえばOKか。

全体最適で考えるのなんて、あったりまえじゃない?」という人に、ちょっとだけ考えてほしいわけ。そう考えないということは、本当にそんなに視点の低い、考えの足りない、責められるべきことなのか。

というのを読んで、これは、この問い自体が重要だなと思った。

全体最適」というスローガンには2つの問題がある。

1つは「全体最適」といいつつ、実態がそうではない。あるいは「全体」といいつつその範囲がせまいケース。社会の変化で、そうなることもある。

すべて、反対者の存在があるようですが、乱暴だけど、その反対理由の多くはたぶん「全体最適ではない」と言い換えられると思うわけです。政治というのは基本的にそういうもののようだし。


2つめは、そもそも「全体」があるかという問題。
個人的には、これは非常に根が深いと思っているんですが。

ネーションステート

(1)全体最適で考えるのが合理的であると教育&訓練されている。
(2)正義や価値観問題としての“全体最適エライ論”が存在する。
(3)“全体最適=自分最適”の人と、“全体最適=オレは損する側”の人がいる。

「(3)にもかかわらず、(1)(2)のようになる」という点について。
とくに「国」。

“国”というのは、全体のアウトプットの最大化が目的の集団なのか?ということだ。


家庭や学校が必ずしもそれを目的としていないために、会社とは異なる判断基準を採用しているとしたら、国ってのはどっちなのさ?と。ねえ。(結構自明か?いや、議論があるのかな?)

議論があるのかな?といったらあるだろう。
「全体のアウトプットの最大化が目的の集団」を「ネーション」といったりする。
個人的に「国」という「全体」については、興味がある。まもられていると感じる一方、大変やっかいだと感じている。
端的に言ってしまえば、国から逃れるのはとても難しいから。


おそらく50年くらい前までは、まだ、「国のため」あるいは「民族のため」といえば通じたんじゃないかと無根拠に思ってるんですが。「民族自決」とかいって。
これを「近代国家」というようです。
まず、それを説明できるほどぼくは歴史に詳しくないのでがんがん引用してしまいます。

近代国家では、どこでも、それぞれ、漢文やラテン語などの普遍的な知的言語を俗語に翻訳しながら、新しい書き言葉を作り上げた。日本の場合は、明治時代に、あらためて俗語(口語)にもとづく書き言葉を作らなければならなかった。「言文一致」と呼ばれるものですが、それはやはり小説家によって実現されたのです。さきほど「美学」に関して、想像力と感性と理性を媒介するものとして重要になったと述べましたが、言語のレベルでも同じことがいえます。言文一致とは、感性的・感情的・具体的なものと、知的で抽象的な概念とをつなぐことなのです。


このような過程は、近代のネーション=ステートが形成されるとき、どこでも起こったということができます。


1:P.36 / 2:P.39-40/ 3:P.42 / 4:P.44 / 5:P.45 / 6:P.48-49 / 7:P.50-51 / 8:P.53 / 9:P.56 / 10:P.57
近代文学の終り」(『近代文学の終り 柄谷行人の現在』柄谷行人

「近代国家」というものは、「ネーション=ステートが形成され」たもののようです。
で、このネーションとステートがイコールなものを、そのまま「ネーション・ステート」というのですが、ところが、これが曲者。
近代以降の国家が「ネーション=ステート」かどうかというと、そうではない。


あるいは、そもそもどこまでが「ネーション」なのかわかんない。「ネーション」ということば自体にも「国」という意味があるみたいですが、それよりは「運命共同体」みたいな「民族」のニュアンスらしい。運命共同体だから1つにまとまろう、あるいは他は手を出すなというのが、たぶん「民族自決」。

勝谷誠彦氏のブロッグに、大学入試センター試験の世界史Bの問題に関して批判が書いてありました。批判の内容はともかく、その文章の中で、「(ネーション・ステートの)ネーションを国民ととるか民族ととるかということは歴史学者の間で論争されているだけではなく実際の歴史の上でもそここそが争点となってきた」とありました。


そういえば、僕の読んだ中でも、岡田英弘氏は「国民国家」と訳し、関曠野氏は「国民国家」はおかしい、「民族国家」と訳すべきだと主張しています。


僕はこう思います。概念の発生の頃(西欧の18、19世紀)は、一つのネーション(民族)がまとまって、主権をネーション(この時点で国民となる)の手に移した国家をネーション・ステート呼んでいた。この時点では、ネーションの、言語・文化・人種を共有する共同性が強く意識されていたでしょう。そして、多くの国がこの理想型を目指して形成されていきました。


ところが、その後の歴史で、一つのネーション(民族)だけで成立した国家は稀です。

理念としては、一つのネーションが形作る国家、というのはあったけれど、現実の国際政治の中で、そういうのは稀だった。ネーション・ステートを目指した国家は、たいてい少数民族を抱えていた。そうこうしてるうちに、概念のもとにあったネーション=ナシオの言語的関連が徐々に忘れられていき、ネーションは今やステートと大して違わない意味をもつようになってきた、と考えられます。特に日本では、「国民国家」という訳が浸透したため、ネーション=国民になってしまいました。もともとの文化の共有性みたいな意味が失われてしまったのです。

で、日本だって、ネーション・ステートだと言いきるにはあまりにも混沌としてます。

『キムリッカの他文化的市民権は、伝統的人権論を主に「価値的人権原理」でもって補完しようとしたものであるが、長期的にはそれが価値対立の根本的解決に資するためには、むしろキムリッカの理論を「ルール的人権原理」によって再検討し、基礎づけし直さなければなるまい。なぜならば、「価値対立」を内包する市民社会において、一つの理論がマイノリティの政治的承認と社会統合を目標とするかぎり、自らの権利主張だけでなく、社会の成員が相互に承認しあう関係の原理が求められるからである』
(「マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究」 P275 から引用)


金氏の視点は現実的で示唆に富んだものだと思う。特に世代が交代するたびに在日コリアン達の意識は多様化し、日本という社会で生活をする意識を持っている人も多い。その意識は僕と何ら変わるところはない。そのうえで金氏は、自己中心性から出発することと、公共性・公共的なるものへの志向性が大事であると述べている。自己中心性とは、利己主義とは違う。自分がしたい事を明確な意思を持ち描く事が、他者の中の「自分性」を大事にする事に繋がると述べている。また「私の欲望」から出発しながら常に「共通の利益」を考え判断するべきとも述べている。その違いを違いとして、公共性を考える事が、開かれた社会を作る、僕はその考えに賛成する。


本書には述べられていないが、キムリッカの理論においてもっとも重要な批判は、キムリッカが先住民などの征服などによって包含される場合をマルチネーション・ステートとして、自発的移民と明確に分けた事である。これにより、エスニック文化・亡命者・難民・外国人労働者などが人達が、そこからこぼれ落ちてしまうことになる。また二分法に分ける事自体が問題となる事も多い。


金氏は上記のようなキムリッカの二分法の視点はないようだが、キムリッカ理論を元にマイノリティ人権理論を構築する場合、気をつけなければならない点だと考える。


その上で公共性を鍵語にして、なおかつ「ルール的人権原理」での捉えなおしを考えられているとすれば、金氏の理論は全く違う様相を呈するものになると想像できる。そしてそれは、今後の日本社会において重要な理論になる可能性を持っている。いや、重要度は日本だけでないのかもしれない。

というわけで、ネーション・ステートはどっかいっちゃったけど。
で、なんだかわけわかんないんですが、上記例にも関わるけど、例の「歴史認識」ってやつもあります。

講演の概要

歴史認識の問題は、ネイション・ステイトの正史としていかなる歴史を教育すべきかという問いを介してナショナリズムの問題に通じている。当講演における別所先生の狙いは、ナショナリズムを脱情念化することである。そして、民族の罪を個人が背負うべきだという議論は不合理であり、国籍ゆえに負う責任は政治的責任のみである、という別所先生の自説が、アンソニー・スミスのナショナリズム論、アーネスト・ゲルナーナショナリズム論、ギデンズの権力論に手がかりを求めながら論じられている。(文責|奥田)

などと、歴史認識と教育だけで1つのネタになってしまう。


それはともかく「教育」というのは結構大きいと思うし、実際そう思われているようです。

教育によっても雰囲気は変わるし、雰囲気によっても教育は変わる。

というわけで、なんで

この「自己犠牲エライ!」「自己抑制、美しい!」「自己より団体を優先する、って徳が高い!」みたいな概念、価値観、これが強くすり込まれると、「なんだって全体最適で考えます」っていう感じになるんだろうな

のが「どこから来てるのか」というと、教育が大きいっぽい。
また、政治(行政)を行なう、政府はとしてはそこが一番いじりやすい。


たとえば日本という「国」に関して言えば、「全体最適で考えます」といういうのを「愛国心」と呼ぶのでしょうか。どちらかというと「『全体最適で考え』たからこうしなさい」という感じがする。
歴史で、太平洋戦争について習ったときに「家族を守るために戦う」みたいな言い方を見たような記憶があるのですが。
しかし、この論理には、飛躍があります。家族ごと逃げれば済む。だとすると、当時はそういうふうに「教育」されたのでしょう。


あるいは雰囲気。


「お国のため」「天皇陛下万歳」は多分、教育されたか雰囲気にながされたかです。ちなみに「美しい国」はそういう香りがする。「首都東京」とか「首都」をやたらと強調するというのもまあ、ちょっとそういう香りがしないでもない。


ともかく、教育と雰囲気だとする。
では、なぜそう教育されたのかといったら、究極的にはそういう政府を選んだからです。
また雰囲気というのがあいまいなら、そういう世論だということ。
教育によっても雰囲気は変わるし、雰囲気によっても教育は変わる。

(3)“全体最適=自分最適”の人と、“全体最適=オレは損する側”の人がいる。

全体最適」で考えると、「自分の人生において一度も得をしない人」がいるんじゃないかと。

引用元の「全体最適」は同時代的な感じですけど、積み立てではない年金や徴兵制も、時間軸を含めれば「全体最適」だ。
だとすると、いますね。
ぼくらの世代は明らかに得をしないでしょう。あるいは、ぼくらが徴兵されなければ、昔むかし、徴兵されて大戦を戦った人にくらべてぼくたちは得をしてるといえるでしょう。
所得の再分配は、少なくとも単年度では、稼いだ方が負け。所得が多いほど税金を取られます。


ただ、それで経済が安定して、治安が維持され、それ以外にもいろいろな「公共の福祉」にかなうと一応信じられているので、国が吸い上げるシステムはなくならないわけです。
少なくとも、ぶちこわすほどの雰囲気は日本にはない。

ファシズム

ところで、

「被害妄想的に」…「全体最適なんかで判断されたら、オレ様が得することは絶対ない!」みたいに“思い込む”というケース。そうなると、この人は全体最適的な理屈を支持しなくなると思う。

ということが書かれてますが。これは微妙。


危機にさらされている人ほど、大きなものにすがろうとする。
じぶんのアイデンティティーを、国家レベル(「わたしは日本人です」)まで引き上げないと保てないと信じてる人がいる(日本人でなくなっても死なないので、ぼくは、これは根拠はないと思う)。
好みならいいんだけど。
もちろん、ぼくだってある程度はそうです。
事件に巻き込まれたら、警察にたよるでしょうし、自衛隊いますぐなくせとは思わない。
ただ、程度問題で、あんまり国家に依存する気持ちが強いとファシズムとか、きもちわるい全体主義が流行ってしまう。


というわけで、冒頭に引用した疑問自体が重要だと思うわけです。

全体最適で考えるのなんて、あったりまえじゃない?」という人に、ちょっとだけ考えてほしいわけ。そう考えないということは、本当にそんなに視点の低い、考えの足りない、責められるべきことなのか。

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