だまんです。

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「生きるのは大変だ」から「世界は美しいものなんだ」

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じつはこの宮崎のインタビュー文では、「生きるのは大変だが、世界は美しい」とも、「生きるのは大変だから、世界は美しい」とも、いっていない。ただ個人的には後者っぽいと思うけど。

(自分の心の中に)残っているのは「生きるのは大変だなあ」という映画なのです。

 私はチャンバラ映画のようにワッと切り捨てたらハッピーだとか、バーンと撃ったからケリがついたとかそういう映画を作りたくない。それは「その時は口に甘いかもしれないけれども、自分の記憶には残らないだろう」という気がしています。「自分が行ったことはないけれども、見たことはないけれども、世界は美しいものなんだな」と見た子どもたちが受け止めてくれるようなものが含まれる映画を作りたいと思ってます。

ところで、ぜんぜん宮崎と関係ないんだけど、この「ワッと切り捨てたらハッピーだとか、バーンと撃ったからケリがついた」という話を見て、さいきん石田衣良の描く結末に、おれが、ことごとくイライラさせられてる原因がわかった気がした。なんだか、世界が美しくみえないのだ。そういえば、生きるのって大変だなあ的感想もなかったけど。
たしかに、社会規模の問題をエピソードなどでリアリティーを持たせて提示する手法は、非常に鮮やか。それだけで十分おいしく食えるぐらいに。
しかし、おれはあの最後が気に入らない。エピソードだけのレベルで「ハッピー」にして満足させようとする。
これ、解決にも普遍性があればいいのですよ。そうではなく、問題提起では普遍的ビジョンを読者に見せておいて、だんだん近視的になって、解決するときは、身内な人々「だけ」が私小説的な幸福を得る(それも超越的な方法で)。そこが問題なの。
さらに、「記憶に残らない」のが作品そのものだけなら害はないのですが、もしかして、もともとあった問題に伴う危機感までついでに忘れそう。なんとなく、ガス抜きされちゃって行動するエネルギーがしぼむんじゃないか、というのが心配なのだ。
普遍的な問題でさえ、目をそらせばOKなの?と思うわけです。我が身に降り掛かるかもしれないのに。
おれは、納得できないわけ。だいぶ話がそれてるけど。

あと「主人公が若い女の子ばかりなのはなぜですか?」という質問。これ明らかにロリコン疑惑を念頭に置いている気がするんですけど。ここまでストレートだと笑える。

——主人公が若い女の子ばかりなのはなぜですか? 今後もこの傾向を続けていくおつもりですか?

宮崎 今、スタジオの若いスタッフに、「君たちは8歳の男の子を主人公にした映画を作らなければならない」と私は言っています。それはとても難しい作業なのです。

 なぜなら8歳の少年は悲劇的にならざるを得ないものを強く持っているからです。知らなければいけないことが山ほどありすぎ、身に付けなければいけない力はあまりにも足りなくて……つまり女の子たちとは違うのです。少女というのは現実の世にいますから、極めて自信たっぷりに生きていますけど、男の子たちはちょっと違うのだと思います。

 それは私の不幸な少年時代の反映なのかもしれませんが、若いスタッフには「君たちの幸せな少年時代を反映させて、少年を主人公に映画を作れ」と言ってあります。

 その年齢の少年たちは実に簡単に世の中のワナに引っかかるのです。つまらないカードを集めたり、つまらないラジコンの車に夢中になったり、あっというまに商業主義のえじきになってしまって、なかなか心の中を知ることができないのです。

で、これって、うまくはぐらかしたのか、そういう意図に思い至らずに答えたのか、むしろ、まさにこの状態こそが「ロリコン」なのか…おれにはわかりません。
ただ、たしかに自分の物語の登場人物として「男の子」はナイーブになっちゃうのだ、という気はおれもする。それの要因は「少年時代の反映かも」という言葉にあるように、自身が「男の子」の生を体験してしまい、「女の子」のそれは体験してない、ということの可能性もある。
根本的には本人にもわからないだろう。おれも元男の子だから何も言えない。
そして、おそらくそれが答えられるなら、そういうアニメばかり作ってないだろう。
ともかく、元男の子として生きてきた事実が現にあり、こういう性格の主人公が出るとき、それが「女の子」になっちゃうという傾向も現にある。
そういう絡まり方をした配管を通してしか主人公を出せない、というシステムの存在は知っていても、彼自身に「なぜ」その形に絡まったかわかってないだろう。
そういう屈託が、人に表現をさせるのではないか。

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