だまんです。

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ああ、なんて不毛な

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批判というのは本当に難しいんだなあ…。
性善説と擬似科学批判 - nikki-da
で言及した件、なにやら結構な騒動になってるようですが。こんな不毛なことにつきあうのは、うんざりしてきた。規模がでかくなっているのは、単にid:chnpk氏のやってることがあまりにも安易だからであって、内容はそれほど有益な議論だとはとても思えないのだ。だって科学的にいって(経済的な面からみて、あるいは合理的かどうかという面から見ても)、「これは科学的に妥当かな?」という思考方法が「どうでもいい」なんてことは絶対にないだろう。

といいつつも、おれがこの渦にかかずらってんのは、なんだか科学全体を侮辱された気になるからです。「科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想」などと軽々しく言われると、むかつくからです。
これが安易でないとしたら、彼が「科学」という言葉をつかうときに浮かぶイメージが、あまりにも狭いのかもしれない。そうでもなければ、このようなタイトルをつけるとは思えない。

で、またしても、ちょろちょろ書いたりほかの日記を読んでたら、なんだ、なんかおれが書かなくても、もっと上手な人が書いてるじゃんと、今さら気づいた。
科学とか信仰とかやってるけど…: Interdisciplinary
で、もういいか…という気分になって来た。
ああ、本当に不毛。


でもその前に、だいぶ書いてしまったのでもったいないからそれだけは載せておく。
何が安易か。というはなし。
言葉遣いが安易なのだ。言葉遣いをおろそかにして議論しても無駄なのに。


そう感じる記述はあっちこっちにあったけど。とりあえず、目についた部分。

いま我々は、まったく科学的なプロセスを経ることなく、科学の結果を享受し、利用することが可能である。これこそがまさに科学が信仰の対象であり、<世界>の秩序であることを物語る。誰かにとって科学が科学的であるために必要な検証は省略され、科学は信じることによってのみ成立しているのだ。*2前回引用したWikipediaにも記載のあったとおり、『科学そのものは科学的ではな』いとも言える。*3 *4

いえない。論理がねじれてる。
まず、「科学」という言葉はいったいなにを指しているのだろうか、ご本人が混乱してる気がする。プロセスなのか、知識なのか、科学者たちの社会なのか。
あのね、

  • 「まったく科学的なプロセスを経ることなく、科学の結果を享受し、利用することが可能である」

ことがなぜ

  • 「科学が信仰の対象であり、<世界>の秩序であることを物語る」

のだろう。ここで「信仰の対象」としての「科学」とは、「科学の結果」か「科学者」のようだ。これ自体は、まあそういう部分があるけど。(ただ、それにしたってなんでもかんでも信じるのかといったら、ふつうはそれなりに合理的な根拠とかシステムがあるわけです。)「科学は信じることによってのみ成立している」と、いくらなんでも「のみ」というのはいいすぎ。ベースに「信じること」があるのは事実でしょうが。「のみ」ではない。
で、さらにはこれらと「前回引用したWikipediaにも記載のあったとおり、『科学そのものは科学的ではな』い」こととは無関係だ。
この「科学そのもの」という記述自体が舌足らずな感じがするけど、言わんとしているのは、かなり基本的というか、全体的というか、メタな概念だろう。たとえば「科学的な手法が『正しい』」(合理的である)ということには、根拠がない。とか、そんな程度の記述だろうと思うのですが。
ともかく、結果をただ信じることと、「科学的手法」の妥当性を信じることは違う。

ぽまの人の発言も援用すると、『「科学的な観察」を選択することによるリスクは、終わりの無い脱魔術化の追求という魔術的な束縛に駆られるということ』である。*5科学的な知識は高度に複雑化したが故に、その正確性を追求するにあたっては無限の時間と検証を要する。その無限の後退に終止符をうつものこそが魔術的な振る舞いであるところの科学信仰に他ならない。科学には、それを語るためには科学信仰と言う非科学的な振る舞いを選択せざるを得ないというパラドクスが付きまとう。

「知識は(略)その正確性を追求するために」とあるが、知識は有限だ。そりゃ、人の一生からみれば「無限」みたいなもんだろうが、あくまでも有限。
「科学には、それを語るためには科学信仰と言う非科学的な振る舞いを選択せざるを得ないというパラドクス」
ああ、そもそも、科学はべつに「かならず正しい」ばかりのものではない。科学は「合理的」であろうとするものではあるかもしれないが。
科学的であるためには、不用意な言葉遣いをしないように十分注意し、かつ正直であれば十分だと思う。
実験系の報告ならば、事実が正しく表現されていれば「正しい」。そこに法則性があったとしてもそれが絶対的な真理だとは誰も思ってないだろう。ま、妥当かつ合理的であればいいわけだ。理論系だと、そうもいかないが、その分証明された定理の「正しさ」には議論の余地はない。

追記

以下のコメントのこと。

103. DD ? November 20, 2008 @07:56:38

きくちさん:
> サイエンス・フィクションニセ科学だなどと呼ぶ人は、何もわかっていないのです。
> 疑似科学ではありますけど。

適当なときに、【疑似科学ニセ科学の違い】をじっくりと説明をお聞かせくださいね。
大事なところ、のようですから。お願いします。

よく見たらマルチポストんなってるし。って、まあそれはいいんですが。
でも、URL追ったらそこにも同じのがあって、それを見たら、どうもこの文章はおれ宛のものではなくリンク先の執筆者にあてたもの、らしい。それを丸々転載されてもなあ…。おれにどーしろと。疑似科学ニセ科学を同一視するなってことだろうか…?

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