だまんです。

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性善説と擬似科学批判

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これ、はてなのトップにリンクが載ってたんだけど。なんか、納得できない。釈然としない。

私が「わからん」のは、突き詰めると科学とニセ科学と宗教の違いだ。3つとも同じに見える。要は人間が信じるか信じないかというだけでしょという点において。宗教も科学も、人間にあたかも世の中に客観的な真理があるかのように思わせる手段に過ぎない。


(略)下に書いてある通り、科学は科学的ではない。私の認識では巷に溢れかえる擬似科学批判は単なる科学信仰に過ぎない。疑似科学批判に余念がない人は、世の中の人が全員科学を信仰しているとでも思ってやしないだろうか。その<普遍性>も「わからん」。と言っておく。

すでに当該日記のコメントでも指摘されているけど。
「信じるか信じないか」という点では同一だとしても、まったく同一だというわけではないだろう。
あるいは「科学」と「科学的」の違い。科学は科学的ではないとしても、科学の内部は科学的。
似非科学」も「科学」の内部にあるのだとしても、「現実的にいって、合理的ではない」ということは、少なくとも重要な差だと思う。経済的な行為がつきまとう場面では特に。「科学的=合理的」だと、だいたい思われてる気がする。


それから、そもそも

  • 似非科学」というものが科学と区別可能かという問題と、
  • 区別可能だとして、似非科学批判が、科学的かつ合理的で価値があるものがあるかという問題は

別の話として、切り離して考えたい。
引用文は、区別可能だが、区別することが無価値だと言っているようにも読める。どっちだろ。
えーと、「科学が科学的ではない」=「科学的なものが科学的ではない」ではないはず。


だって科学(の既存のパラダイム)に矛盾するものまで科学的だといったら、それは嘘になるだろう。
宗教は「宗教」と呼ばれる。ところが似非科学には、科学的ではないのに、「科学的」というレッテルが貼ってある。しかも「似非科学」を「科学的に正しい」と積極的に主張する場合には、どうも悪意か怠慢か無知がありそうに思えて、「いっしょにするな!」という気になるんだと思う。というのは、印象の問題なのだろうか。


似非科学

  • 「非科学的(非合理的)な『科学』」と
  • 「反科学的な『科学』」

の2種類にわけてみる。
非合理的な「科学」といったのは、否定はできないけど、論理の道筋が、妙にまわりくどいとか、べつになくてもいい仮定がふくまれるとか、そういう根拠が無いグレーな感じ。あくまでも信仰でしかない思想を、科学的だと称するとか。
反科学的といったのは、論理的に否定される考え。既存のパラダイムにあわないもの。でも、反科学的なものを「科学的だ」というのは(その時点では)明らかに嘘か勘違いだから、ある意味ではあまり問題ないと思う(相手にされなければ)。


むしろ非合理的な「科学」のが、めんどくさそう。とくに(おそらくけっこう原理主義的な立場だろうけど)「科学そのものは科学的ではない」という考えを認めるときどうするか。認めるとしても似非科学は区別可能だとわたくしとしては思いたいのですが…。少なくとも「合理性」というものを認めるなら、「似非科学」と「そうでない科学」の区別にパラダイムを持ち出す必要は無いだろうと。既存のパラダイム内で「似非科学は合理的ではない」といえる可能性はあるから。ただ、科学的なものは合理的か?という疑問は残るけど。(「論理的に正しいもの」が…とまでいいはじめたら、以下のWikipediaの論も、ここまでの記述も、というかもう言語による議論自体が不可能だろうからやめておきますが。)

20世紀前半の科学哲学者カール・ポパー反証可能性の概念を提示し、それを条件とすることで理論が科学(彼が考える狭義の科学)に属するかそうでないかを線引きできることを示してみせた。混沌とした議論に悩まされ続けていた科学者らの中には反証可能性の概念や反証主義をひとつの解決策として歓迎する人が多かった。現在でも、これを科学と擬似科学とを区分する基準として採用する人は多い[6][7]。

ただしこうしたポパーの科学観に対しては1960年代から批判が加えられるようになった。その代表は科学史家トーマス・クーンのパラダイム論である。パラダイム論によれば、観察は、データを受動的に知覚するだけの行為ではなく、パラダイムすなわち特定の見方・考え方に基づいて事象を能動的に意味付ける行為である。従って、パラダイムそのものは個別の観察によって反証されるのではなく、別のパラダイムの登場によって「パラダイムシフト」の形で覆される。

また、科学に属する諸学問は科学であるが、科学そのものは科学的ではなく一種の思想であるとする意見もある。分類可能性と予測可能性は厳格なカオスを除いては一体不可分であり、もとより科学は過去の知見を元に未来を予測する性向を強く持つ(自然の斉一性)。このため「科学的」でさえあれば未来の予測は正しいとの確信を招きがちである。このような確信は、論理の前提とすべき命題の不知、確率的現象やカオスの存在によりしばしば裏切られる。

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