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自然にGTDらしいタスク管理が出来る無料アプリDoit.im

Doit.im for iPhone

Doit.im for iPhone

  • Doit.im
  • 仕事効率化
  • 無料

これまでAppleのリマインダー、WunderlistでGTDをしてきたが、1年くらい前にDoit.imに移行し、このアプリに落ち着いた。
このアプリのいいところは、特に工夫しないでも素直にGTDができることだ。また、タスク登録も素早くできる。

途中でToodledo、Remember The Milk、Swipes、Evernoteと連携するタイプのアプリなどにも手を出してみたが、所要時間の見積もりを設定しないと不便だったり、「いつかやる」「次にやる」「指定日にやる」リストが並列になかったりとか、プロジェクトの概念がちょっと違うとか、コンテキスト(場所)の指定がしにくいとか、見た目が気にくわないとか、なにがしか欠点があって、挫折した。
あとまともに試してないのはOmniFocusだけだけど、あれはどう考えても無料では使えないので、ここでは除く。

Doit.imは中国杭州市にある会社が開発元で、やや日本語の翻訳がこなれていないという欠点があるが、一応日本語で使える。GTD用語は日本語版の書籍に準じているので、GTDの本を読んだことのある人なら使い方はすぐにわかるだろう。

機能的には、GTDの本(デビッド・アレン『はじめてのGTD ストレスフリーの整理術』(二見書房、2008))に出てくるような機能はすべて過不足なくそろっている。

パソコン用アプリはPRO版専用だが、ウェブ版のUIが十分高機能である。たとえばD&Dで、複数のタスクのコンテキスト、期日(いつか、次、連絡待ち…)、プロジェクト、コンテキストの切り替えができるなど、十分な機能がある。タスクの追加時に「@コンテキスト名 ^時刻 #プロジェクト名」などのように入力すると、自動補完が働いて一発でタスクのメタデータを設定できる。

課金しないとGoogle CalenderやiOSアプリとの同期が1日に1回しかできない(しかもアプリは手動)という制限があるが、僕のように夜のうちにパソコンで明日のタスクを調整し、日中はiPhoneからのみ利用するパターンであれば、まったく問題ない。

ちなみに、有料のPRO版は

  • $2.00/月
  • または、$20.00/年(年間で$4.00 off)

である。

PRO版では、タスクのなかにサブタスクを入れられる機能も使えるようになる。1階層分のサブプロジェクトのような感じで、必要ならプロジェクトに昇格させることもできる。

課金したとしても上記のようにこの手のアプリのなかでも安い方だし、その意味でもおすすめだ。

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はじめてのGTD ストレスフリーの整理術

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ひとつ上のGTD ストレスフリーの整理術 実践編――仕事というゲームと人生というビジネスに勝利する方法

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深夜の徘徊

今週のお題「夏の食事」

さいきん深夜にこっそり家を出てしばらく散歩をしてからコンビニに行って、甘くて冷たいものを買ってしまう。

おとといはみかんゼリー。
昨日はガリガリ君
きょうは杏仁豆腐。

なんなんだろうな。エアコンがないから冷たいものが食べたいんだろうけど、さすがに太りそうである。
さきおとといは、気をつかってブラッドオレンジのローカロリーなゼリーにしたんだけど、あれはまずかったなあ。

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2015、3日目

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(今週のお題ゴールデンウィーク2015」)
5月4日(祝)に、『ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン熱狂の日」音楽祭2015』の3日目に行ってきました。場所は東京国際フォーラム、テーマは「パシオン(PASSIONS)」。ただ、「祈りのパシオン」「恋のパシオン」「いのちのパシオン」のカテゴリがあったんだけど、いまいちピンとこないというか、参考にはしなかった。

チケットは公演ごとでした。ロックフェスティバルでは、出入り自由で1日分のチケットを買う感じのところが多いみたいですが、LFJは単に全席指定のコンサートが一度にたくさん開催される感じなので、観たい公演すべてについて入場までにチケットを買っておく必要があります(例外的に一番大きいホールAだけは1日通し券もあります)。

今回初めて参加したけど、ホールAの音響は正直言ってよくない。そもそもアコースティックで5千人は大きすぎて無理があるのかもしれないとも思う。東京国際フォーラムという名前からしてクラッシック専用ではないはずだから、やむを得ない面もあるのだろう。ステージ両脇にはなんと映写式のスクリーンがあり、クラッシックのDVDかロックコンサートを見ているようだった。

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ハケンアニメ=覇権アニメ

ハケンアニメ!

ハケンアニメ!

僕、「覇権」という言葉はまったく知らなかったんだけど、この小説は面白かった。

今季は偶然なんだろうけど、アニメの制作現場を描いたアニメ『SHIROBAKO』もあって、あっちもこっちも面白くて、ホクホクしている。
なんか、こういう作品が出てくるような素地ができてきたということなのだろうと思った。

最近のアニメは2000年代のアニメと比べて、ハイビジョンの画角にも慣れたみたいだし、線のぎこちない感じもとれた感じがあって、とても画面がきれいになったと思う(まあ現場はいろいろあるんだろうけど)。

90年代とかと比べても、ラジオ、イベント、ニコ生など、声優やスタッフの露出機会が増えていて、視聴者の感じるキャストとの心理的距離は近いと思う。また、アニメ自体の対象年齢も上がっていて、そういう周辺のイベントやコンテンツへのアクセスも良くなっていると思う。

そういうわけで、なんとなくこういう風に両者の公開タイミングが近かったのかな、と勝手に納得している。

マリア様がみてる(小説)を読んだ。

マリア様がみてる (コバルト文庫)

マリア様がみてる (コバルト文庫)

ふと気が向いて、「マリア様がみてる」を読んだ。短編集もあわせて全37巻。
10日くらいかかった。こういう素性の(コバルト文庫なんです)小説なせいか、わりとさくさく読めた。

先にアニメを観たので、「あ、ちゃんとカトリックってはじめに書いてあるんだな」とか「祐巳もやっぱり《ふつうのお嬢さま》なんだなあ」とか、いろいろ思ったこととかあったんだけど、いまはメモみるのが面倒くさいので、このくらいにしておく。そのうち気が向いたら載せるかもしれない。

最初は祐巳の思い込みとかでドタバタするというお話の作り方で、ちょっと苦手だなあ、つらいなあと思ったけど、瞳子登場のエピソードが片付いたあたりからだろうか、だんだん落ち着いた雰囲気になってきて個人的には後半のが好きだ。

一進一退

 眠い。眠いといつも以上に本が読めなくてとてもそわそわするので、ひまつぶしにブログを更新することにした。

 これは年末年始に書こうと思って放置していた記事である。
 いままでもTwitterとかで「本が読めない、本が読めない」ってわめいていたことがあるけど、どれくらい最近の俺が本を読めないのか、定量的に示したことはなかったと思うので、ここで去年の各月の読書冊数のグラフを載せてみようと思う。年末年始に読書メーターの期間限定の企画で提供されたものである。
 グラフによると去年の6月くらいからガクガクッと読んだ数が減っているのがわかる。

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 完全にスランプである。いままでこんなことはなかったので、正直何が起きているのかわからなくてとても困惑した。ここ数年、躁鬱(双極II型)で精神科にかかっているが、主訴はこれである(マジで)。

 ここ13年間くらい、1日/冊以上のペースで本を読むのが習慣というか強迫観念みたいにになってしまっていたので、何ヶ月も続けて月30冊(≒1日1冊)のラインを割っている状態が続くのは僕にとっては非常事態なのだ。生命活動が止まっているのに等しい。8月の4冊なんていうのはもう、本当にどうやって生きていたのか不思議である。そもそも、1月〜7月の時点で30冊ラインのそばをふらふらしていて、これだけでも十分不調だったのである(2007年以来の平均は月46冊)。

 もしかしてもう一生分の「読書力」を使い果たしたのではないかと怖くなったりした。本を読む以外に人生の過ごし方を知らないので、いまでも空き時間が怖い。

 さすがにただのスランプだったみたいで、ここのところ徐々に読める本が増えているような気がしてはいるが。ここ数日はついに読書冊数が4冊/日くらいまで増えて、もしかして集中力が復活してきたかと思ったけど、それはただラノベ(「マリア様がみてる」)しか読んでないせいだったみたい。図書館の予約のタイミングを間違えて、きょうは手許に「マリみて」がないんだけど、そうしたらやっぱり普通の小説何か抵抗があって全然読めなかった。
 一進一退である。

文体と東京の近代

東京 下町山の手 1867-1923 (講談社学術文庫) 失われた近代を求めてII 自然主義と呼ばれたもの達 (失われた近代を求めて 2) 失われた近代を求めてIII 明治二十年代の作家達 (失われた近代を求めて 3) 失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生 (失われた近代を求めて 1)

エドワード・サイデンステッカーの『東京 下町山の手 1867-1923 (講談社学術文庫)』の後に、橋本治の「失われた近代を求めて」シリーズを読んだ。
一緒に読むには結構いい組み合わせかもしれない。

両者をやや強引に結びつければ、サイデンステッカーは「東京」がどう成立していったかを文化や建築などの側面から描いていて、もう一方の橋本治は似たような分析を、文体の側面から近代文学に対して行っている(と言えるかもしれない)。
両者が扱うものはほとんど重ならないけど、扱う時代はほとんど同じ。なんとなく相補的だった。

ちなみに、この二者では、ザイデンステッカーの方が扱う範囲が広く概観的であるし、日常に近い事柄を扱っていて馴染みやすい気もするから、僕はザイデンステッカーの方を先に読むことをを勧めます。

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