ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2015、3日目
(今週のお題「ゴールデンウィーク2015」)
5月4日(祝)に、『ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭2015』の3日目に行ってきました。場所は東京国際フォーラム、テーマは「パシオン(PASSIONS)」。ただ、「祈りのパシオン」「恋のパシオン」「いのちのパシオン」のカテゴリがあったんだけど、いまいちピンとこないというか、参考にはしなかった。
チケットは公演ごとでした。ロックフェスティバルでは、出入り自由で1日分のチケットを買う感じのところが多いみたいですが、LFJは単に全席指定のコンサートが一度にたくさん開催される感じなので、観たい公演すべてについて入場までにチケットを買っておく必要があります(例外的に一番大きいホールAだけは1日通し券もあります)。
今回初めて参加したけど、ホールAの音響は正直言ってよくない。そもそもアコースティックで5千人は大きすぎて無理があるのかもしれないとも思う。東京国際フォーラムという名前からしてクラッシック専用ではないはずだから、やむを得ない面もあるのだろう。ステージ両脇にはなんと映写式のスクリーンがあり、クラッシックのDVDかロックコンサートを見ているようだった。
続きを読むハケンアニメ=覇権アニメ
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僕、「覇権」という言葉はまったく知らなかったんだけど、この小説は面白かった。
今季は偶然なんだろうけど、アニメの制作現場を描いたアニメ『SHIROBAKO』もあって、あっちもこっちも面白くて、ホクホクしている。
なんか、こういう作品が出てくるような素地ができてきたということなのだろうと思った。
最近のアニメは2000年代のアニメと比べて、ハイビジョンの画角にも慣れたみたいだし、線のぎこちない感じもとれた感じがあって、とても画面がきれいになったと思う(まあ現場はいろいろあるんだろうけど)。
90年代とかと比べても、ラジオ、イベント、ニコ生など、声優やスタッフの露出機会が増えていて、視聴者の感じるキャストとの心理的距離は近いと思う。また、アニメ自体の対象年齢も上がっていて、そういう周辺のイベントやコンテンツへのアクセスも良くなっていると思う。
そういうわけで、なんとなくこういう風に両者の公開タイミングが近かったのかな、と勝手に納得している。
マリア様がみてる(小説)を読んだ。
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10日くらいかかった。こういう素性の(コバルト文庫なんです)小説なせいか、わりとさくさく読めた。
先にアニメを観たので、「あ、ちゃんとカトリックってはじめに書いてあるんだな」とか「祐巳もやっぱり《ふつうのお嬢さま》なんだなあ」とか、いろいろ思ったこととかあったんだけど、いまはメモみるのが面倒くさいので、このくらいにしておく。そのうち気が向いたら載せるかもしれない。
最初は祐巳の思い込みとかでドタバタするというお話の作り方で、ちょっと苦手だなあ、つらいなあと思ったけど、瞳子登場のエピソードが片付いたあたりからだろうか、だんだん落ち着いた雰囲気になってきて個人的には後半のが好きだ。
一進一退
眠い。眠いといつも以上に本が読めなくてとてもそわそわするので、ひまつぶしにブログを更新することにした。
これは年末年始に書こうと思って放置していた記事である。
いままでもTwitterとかで「本が読めない、本が読めない」ってわめいていたことがあるけど、どれくらい最近の俺が本を読めないのか、定量的に示したことはなかったと思うので、ここで去年の各月の読書冊数のグラフを載せてみようと思う。年末年始に読書メーターの期間限定の企画で提供されたものである。
グラフによると去年の6月くらいからガクガクッと読んだ数が減っているのがわかる。
完全にスランプである。いままでこんなことはなかったので、正直何が起きているのかわからなくてとても困惑した。ここ数年、躁鬱(双極II型)で精神科にかかっているが、主訴はこれである(マジで)。
ここ13年間くらい、1日/冊以上のペースで本を読むのが習慣というか強迫観念みたいにになってしまっていたので、何ヶ月も続けて月30冊(≒1日1冊)のラインを割っている状態が続くのは僕にとっては非常事態なのだ。生命活動が止まっているのに等しい。8月の4冊なんていうのはもう、本当にどうやって生きていたのか不思議である。そもそも、1月〜7月の時点で30冊ラインのそばをふらふらしていて、これだけでも十分不調だったのである(2007年以来の平均は月46冊)。
もしかしてもう一生分の「読書力」を使い果たしたのではないかと怖くなったりした。本を読む以外に人生の過ごし方を知らないので、いまでも空き時間が怖い。
さすがにただのスランプだったみたいで、ここのところ徐々に読める本が増えているような気がしてはいるが。ここ数日はついに読書冊数が4冊/日くらいまで増えて、もしかして集中力が復活してきたかと思ったけど、それはただラノベ(「マリア様がみてる」)しか読んでないせいだったみたい。図書館の予約のタイミングを間違えて、きょうは手許に「マリみて」がないんだけど、そうしたらやっぱり普通の小説何か抵抗があって全然読めなかった。
一進一退である。
文体と東京の近代
- 東京 下町山の手 1867-1923 (講談社学術文庫)
- 失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生 (失われた近代を求めて 1)
- 失われた近代を求めてII 自然主義と呼ばれたもの達 (失われた近代を求めて 2)
- 失われた近代を求めてIII 明治二十年代の作家達 (失われた近代を求めて 3)
エドワード・サイデンステッカーの『東京 下町山の手 1867-1923 (講談社学術文庫)』の後に、橋本治の「失われた近代を求めて」シリーズを読んだ。
一緒に読むには結構いい組み合わせかもしれない。
両者をやや強引に結びつければ、サイデンステッカーは「東京」がどう成立していったかを文化や建築などの側面から描いていて、もう一方の橋本治は似たような分析を、文体の側面から近代文学に対して行っている(と言えるかもしれない)。
両者が扱うものはほとんど重ならないけど、扱う時代はほとんど同じ。なんとなく相補的だった。
ちなみに、この二者では、ザイデンステッカーの方が扱う範囲が広く概観的であるし、日常に近い事柄を扱っていて馴染みやすい気もするから、僕はザイデンステッカーの方を先に読むことをを勧めます。
特例有限会社の代表取締役はいつ実質的に辞めたことになるのか
難しい本は頭に入らないし、簡単な本は飽きる。いったいどうしろというんだ……。
さて昨日まとめて投稿した件ですが。実はまだ悩んでいる。実際のところ、うちの会社としては、社長が交代しない以上もはや必要ない知識なんですが……。
代表取締役が互選によって選ばれるとき、代表取締役が取締役も同時に辞任していたときは、彼の地位はいつまで継続すると考えればいいのか。
- 直後の株主総会に出席できるのか:たぶんできる
- どうやら、代表取締役が辞表を出しても、総会までは権限が消えないように見える
- 後任の取締役選任案が可決された瞬間にクビになるのか:可能性はあるように見える
- 彼は出席権限で議事録に代表印を押せないのか:押せないという説を見た
- だとすれば新任の取締役は個人実印を押す義務があるのではないか:不明
- なぜ代表取締役が空席なのに辞めさせられるのか不明だが、取締役の定数が足りてさえいれば、辞任できるのだろうか
- では、辞表に書く代表取締役辞任の時期を次回の総会終了後になるようにすればどうか
以上では代表取締役が取締役も同時に辞任するパターンを考えた。条件は特例有限会社(取締役会非設置会社)で、代表取締役を取締役が互選することであった。
ここで謎なのは総会議事録に代表印を押せないという点だ。
次に代表取締役が辞任しただの取締役として残る場合である。
- 総会議事録には議長・議事録作製者として代表印を押せる
- 互選するまで代表取締役の資格が維持されるらしく、互選書も同様に押印できる
- いずれも「被選任者は、席上でただちに就任を承諾した」と書ける
- 前者は、定期総会で満期退任だとそもそも新任の取締役には記名押印する理由がない(まだ一般人だから)
- 後者は新代表取締役は記名押印するが、代表印があるので実印は求められない
- だとすると、新任の代表取締役の実印押印と印鑑証明添付を完全に省略できてしまう
これは代表取締役の権限で、すべて記載の通りに議事が行われたと責任をとれるということなのだろうか?
新取締役が押印するか、実印がいるか、謎が多いのに、「あまり手抜きをしないで、就任承諾書くらい作りましょう」みたいな論調で困る。
だって、うちで、僕が社長やるとなると、総会は役員兼株主1人+候補者1人だし、互選も2人なのだ。
まあ、総会は紙面でやって、取締役の就任承諾書(個人実印+印鑑証明)は書くことにしたけどね。
でも、互選した結果についての承諾書は、ばかばかしいから省略できるものならしようかと思って。